「村議会議長の渋谷竜一さんですよ」
青山助役が小声で教えてくれた。
「村長、全快おめでとうございます。退院できて本当によかったですね」
渋谷議長が握手を求めて右手を差し出してきた。
「あ、ありがとうございます。おかげさまで、なんとか退院できました」
私は苦笑いしながら握手をした。ただ、この渋谷議長と一言二言ことばを交わしただけなのだが、今まで接してきた日野多摩村の人々とは何か違うものを感じた。
すると、村役場の前に一台のタクシーが猛スピードで入ってくる。タクシーの大きなブレーキ音にロビーに居合わせた人たちが驚いている。そのまま話を続けていると、そのタクシーを降りてきた人のヒールの音がこちらに近づいてくる。なんとなく視線を感じて振り向くと
「あんた、何やってんのよ」
タクシーを降りてきた人にいきなり怒鳴られた。そこには鬼の形相の女性が一人立ちはだかっていたのである。私の姉・権田原恵子だった。役場の空気が凍り付くのを感じた。
「ああ、ここじゃ、あれだから村長室に行こうか」
周囲の人に村長の隠し妻か、などと変な誤解をされてもいけない。
「姉です。姉です。少しお話をしてきまーす」
叫びながら私は慌てて姉を村長室へ押し込んだ。ちらりと見ると、渋谷議長が秘書らしき人とコソコソ話している姿が目に入った。姉は勢いよく村長室の扉を閉めるなり
「村役場に行ったきり全然帰ってこないし、連絡もないし。ちゃんと正一のこと、役場の人たちに伝えたの。全く、もう」
ハンドバッグをテーブルの上に放り投げ、姉は怒り心頭のご様子である。
「この村は携帯電話の電波が入りにくくてさ。ついつい電話するのが面倒になって」
「それなら役場の電話で架ければいいじゃない。そもそも全然帰ってこないってどういうことなのよ」
「役場の電話じゃ架けられないんだ。事情があって」
「どういう事情なの。ちゃんと話してよ」
姉が机をバンバンと叩いた。
「兄貴の病状のことはすぐ伝えたんだ。それで」
「それで何よ」
「でも村の助役さんが村長不在だと困るから、皆さんに内緒で兄貴の『影武者』をしばらくやってくれないかって頼まれたんだ。俺がとても似ているからちょうどいいって」
姉は呆れ果てて、来客用ソファーに怒りにまかせて腰を下ろし足を組む。
「どうせ、そんなことだろうと思ってたわよ。でもそれはマズいんじゃないの。村の人たちを騙してるんでしょ」
「確かに。でも重要書類は助役さんが全部処理するから大丈夫だって」
「どっちにしたって、勉強が苦手で頭の悪いあんたが務まるはずがないでしょ。仮に村長のフリをするだけにしても。全く何を考えているのよ」
姉はうなだれて黙ってしまう。