後日、母にその話をすると驚きもせず、「その葉っぱを食べていた虫だから、心配ないよ」と何も問題は無い、と言う顔をしていました。本当にそう思って言ったのか、私を安心させるためなのか、聞いてみる勇気はありませんでした。
東京から久しぶりに帰宅した兄は、夕食時にいつものすいとんを食べながら、「タンパク質が全然無いね」と心配するのでした。
確かに栄養のバランスを考えた事はありません。時々焼き魚にしたり、父の好きなアラ煮を食べたりする位です。
また、味噌汁の煮干しを見つけると、弟や妹は「当たったー」と言っては、嬉しそうにしゃぶっていました。
すいとんも鶏ガラの出汁で作った時は、とても好評で皆幸せな顔でした。その時はすいとんもご馳走です。ぜいたくな物は無くても、分相応の生活の中でそれなりの喜びや楽しみもあったのです。
八百屋さんの「ごんぎつね」
私は中学二年の頃から体力も付き、貧しいながらも生活への自信も付いてきました。越してきた坂下は那珂川に沿った平地で、そこに農家が散在していました。その農家に時々町の八百屋さんがリヤカーを引いて、野菜の仕入れに来るのです。
坂道の紅葉が綺麗な秋の日曜日の事でした。偶然私は外にいて、その光景に出合わせたのです。それは野菜を山のようにリヤカーに積み、懸命に引いて行く、顔見知りの八百屋のおじさんでした。
坂道を上がるにはあまりにもきつく苦労している様子でした。私は思わず駆け寄り、リヤカーの後ろを押して手伝いました。その坂道は、坂下に越して来る時に通った道です。あの時以来久しぶりに通る道です。
何気ない坂道ですが、私には特別な坂道でした。リヤカーを押しながら、今では懐かしいあのバラックの家を見たいと、何故かワクワクしました。あの時のつらさが今では温かく甦るのが不思議でした。
登り切る坂の最後は急斜面です。その斜面の横に、バラックの家があったのです。ところがその時はもう、何も残っていませんでした。こんな崖にどうやって家が建っていたのか、と思う程の崖でした。
草が生い茂ったその崖を見て、バラック小屋での生活は遠い夢の中に消えていく想いでした。お世話になったつるべ井戸だけが、当時と変わらずポツンと残っていました。
坂の上に着くと八百屋のおじさんは、「ありがとう。とても助かったよ」と言い大根を一本下さいました。
そしてその日から時々、学校から帰ると家の前に野菜が一品二品置いてあったのです。それは新美南吉の『ごんぎつね』の話のようでした。その野菜は、八百屋さんが下さったのです。私はそのつど学校帰りにお店に寄って丁寧にお礼を言ってきました。