光に照らされる選手たちと共に、成し遂げた快挙を自分事として分かち合う人間がいる一方で、また別の場所では、この快挙が多くの人たちに称えられるべく、大会運営にぬかりないように、と見守る技術委員の責任者。

朝から走り回り、時に汗を拭い、同じフェンシングを愛する1人として喜びを感じながらも、自らが果たす役割に頭を巡らせ、次の工程を考え、早く移動しないと、と少なからぬ焦りを抱いていた女性たち。

そんなすべての光景に目と気と心を配りながら、この前代未聞の五輪で尽力してくれたボランティアたちにも「この瞬間が見えるように」と、ほんの少し、密かにセキュリティエリアを広げた、〝スポーツマネージャー〟として大会運営を担った1人の女性。

それぞれが、各々の場所で見て、ビジョンを描き、携わり、奔走しながら、手探りの中、つくりあげた東京五輪。

招致から開催決定に至った2013年9月7日から、本来開催予定だった2020年から一年の延期を経て、ようやく開催された2021年、夏。

史上初の金メダルは確かな快挙だ。

だがそこには、眩い光の中だけでは語られることのない、〝作り手〟たちの、いくつもの物語があった。

主な用語

普及の工夫と苦悩 太田雄貴

日本フェンシングの「顔」として思い浮かべる時、おそらく真っ先に上がるのはこの人ではないだろうか。

太田雄貴。日本フェンシング協会前会長であり、日本フェンシング史上初の五輪メダリストだ。

小学3年生からフェンシングを始め、すぐに頭角を現すと平安高校(現龍谷大学付属平安中・高校)2年時には日本選手権の男子フルーレ個人戦を最年少で制覇。世界選手権の日本代表メンバーにも抜擢され、2004年のアテネ五輪に初出場を果たし、2008年の北京五輪で銀メダルを獲得した。

自身だけでなく、むしろそれ以上に周囲が待ちわびて、待ちわびた末にたどり着いた「五輪でメダル獲得」という快挙と、明るいキャラクターが人気を呼び、メダル獲得後はテレビを始めとするさまざまなメディア出演や、イベントや講演に寝る間を惜しんで全国を飛び回った。

体力的にも精神的にも疲弊していたが、自身が出ていくことでフェンシングの普及につながるなら、と必死だった日々。

「(北京)五輪へ出発する前は取材が2人だったのに、帰ってきたら3か月休みなし。テレビに出させてもらう機会も多くありましたが、周りは1人のタレントさんに4、5人のマネージャーさんがついて行く中、僕は1人。慣れないことだらけでしたが、社会勉強の場でもありました。

今思えば、僕にあれだけ声をかけていただいたのも〝意外性〟ですよね。フェンシング〝なのに〟メダルが獲れた。これが柔道のように常勝競技であれば、柔道〝なのに〟メダルが獲れなかった、と注目される。その切り口に、僕は間違いなくハマっていたんだと思いますね」