『記憶の端』
講堂の一番後ろの席でノートや筆記用具をカバンに突っ込んでいる時だった。つかつかっという足音が丁度僕の斜め横で止まり、そこから動こうとしない気配を感じた。
少し怖くなり僕は恐る恐る顔を上げる。そこには黒髪に包まれた顔の中に鎮座している黒緑色の瞳があった。
紗里だった。
僕はなんの反応もできずただ黙って見つめ返した。嫌な沈黙ではなかったが僕は確実に戸惑っていた。しばらく、といってもそれほどの時間は経っていないと思う。でも半日は過ぎた様な充実感と気だるさが身体に舞い降りていた。
「付き合ってください」
気持ちいいほど率直な言葉が彼女の口から発せられた。僕は一瞬息をするのを忘れる。実は僕も気になっていた、付き合いたいとさえ思っていたのに後から言うことが卑怯に思え何も言えなくなってしまう。告白した方は弱者か強者かといえば前者の方だと僕は勝手に思っている。しかし紗里といえばまるで違った。
「お返事待っています」
そう言ってから連絡先を寄越すと出会った時と同じ様にくるっと向きを変えて行ってしまった。上目遣いなんてせず背筋をピンと伸ばして、僕の方ではなく外の世界に。
イヤフォンから聞こえてくる曲が、いつもとは違う旋律を放っている気がした。遅れている春が巡ってくる様な風が、僕の頬を撫でていく。待たせているのは僕なのに、追いかけないと彼女はどこかに行ってしまいそうだった。
その夜僕は、我慢できずに紗里から手渡されたメモをカバンの内ポケットから取り出していた。こんなことならその場で返事をしていたらよかったんだ。それができない自分の変なプライドに僕自身飽き飽きしている。
紗里は僕が夜になって連絡を寄越すのを想定していたかの様に、さして驚かず歓喜の声も上げず冷静だった。丁寧に礼を言ってから少し雑談してお互い電話を切った。
次の日、いつもの道の桜の木には鳥がさえずり、たくさんの蕾がパンパンに膨らんでいた。ふっくらとした蕾はどうぞと言わんばかりに開き始めている。甘い香りは僕に誘いかけて来るようだった。