建物の二階、体育館みたいな大広間、しかも総鏡張りという不思議な空間に大きいB型からアップライトまでスタインウェイがびっしり列を成していた。

調律の済んでいる一角を示され、和枝は中古、新品合わせ八台を試弾する。

廉は少しだけ離れた所から聴いていたが、ふと背後に人の気配を感じた。

振り返ると、値踏みするような視線を不遠慮に投げて寄越す男が立っていた。

お辞儀をして言葉だけは丁寧に、名刺を差し出す。肩書は「ピアノ・テクニシャン」となっていて、廉が顔を上げた途端、「僕のスタインウェイは」と語り出した。ケレン味たっぷりに。

和枝にはピアノ探しに専念してもらいたいので廉が話し相手を一手に引き受ける。

いま試弾中の八台はすべて自分がベストな状態にまで持っていったとか、家にはスタインウェイ五台とベンツ二台があるとか、アルフレッド・ブレンデルに調律のことで意見したことがあるとか、廉が好きなベルリン・フィルの元首席クラリネット奏者カール・ライスターとは親交があるとか、講釈とも自慢話ともつかない大変ありがたい「僕のスタインウェイこぼれ話」をたっぷり一時間弱聞かされた。

廉の方は、忍耐もそろそろ限界に来ていたところで、太宰治『親友交歓』の不気味さと滑稽が入り交じるやり取り「かかを呼んで来い。かかのお酌でなければ、もうおれは飲まん!」がひょいと頭に浮かび、思わず声を立てて笑ってしまった。

すると、廉の突然のリアクションにポカンと口を開けたテクニシャンは、無言で一礼するとそそくさと鏡の扉の外に消えていった。

「世界の頂点を極めたブランドに関わるわけだから、自分の立場を勘違いする人間が出てきても仕方ないのかな」と思った。

和枝が「良くないよ、このラインナップ。まあ強いて言えばね……」と言いながら廉の袖を引っ張った。「この新品のA型かな。中音域の鳴りは物足りないけどね」

中古には弾き続けてみたいというピアノは皆無で、まあまあ状態の良いO型一台を拾い出せたに過ぎなかったという。

さっきのピアノ・テクニシャンの自信たっぷりの横顔が目に浮かんだ。「あなたが手塩にかけたスタインウェイの響きがこれですか」と言ってやりたくなるくらい収穫の乏しい一日になってしまった。

中古への期待も一気にしぼんだ。

帰りは新幹線に乗った。それで少し気が大きくなったのか、和枝と廉は新品スタインウェイを探してみる可能性についても初めて話した。

【前回の記事を読む】【小説】どんなピアノに出会えるのだろう。わくわくしている今が一番幸せな時なのかもしれない…