夢に出会った小・中学校時代

7歳になる1958年の4月、私は川越第2小学校に入学した。

兄は初雁中学校の1年生になった。兄は柔道部に入り、家に帰る時間が遅くなったこともあり、以前のように自転車で私の送り迎えをすることができなくなった。

そこで、母が小学校の入学式の2~3週間前に、どこからか中古の子供用自転車を買って来てくれた。私はそれまで自転車に乗ったことがなかったので、猛特訓をし、学校へ行くまでにはなんとか乗れるようになった。

私の自転車通学に関する逸話が一つある。自転車通学を始めて間もないある朝、いつものようにMちゃんの家である近⾧八百屋を右折して、「時の鐘」がある通りに差し掛かったところで、3人の同じ学年の女子生徒に出くわした。

彼女達は隣のクラスの生徒で、その中の内田美沙子(仮名)ちゃんは、番⾧肌のいじめっ子として知られていた。私が自転車を速くこいで通り過ぎようとしたところ、案の定、美沙子ちゃんが大声で、「学校に自転車で行くなんてずるい。あたしを学校まで乗っけていけ」と、どなった。

自転車を習ったばかりの私は、一人で乗るのが精一杯だったのだが、美沙子ちゃん達にいじめられるのが怖くて自転車を止めた。

そして、美沙子ちゃんが自転車の荷台にまたがると、力一杯ペダルを踏み込んだ。自転車はゆっくり走り出したのだがバランスがうまく取れず、自転車は前進するよりも右へよろよろ、左へよろよろ。

美沙子ちゃんは、「なんだ下手くそ」と言って私の自転車からぴょんと飛び降りた。以来、美沙子ちゃんが私の自転車通学に関してとやかく言うことはなかった。

小学校に入ると、母は私を習字塾と勉強塾に通わせた。上田(仮名)習字塾では、毎月「習字の友の会」が出す課題を練習して提出する。私は練習するのが嫌で、毎月締切の直前になって母に怒られて泣きながら清書したのを覚えている。

それでも、小学生低学年の部では5段まで行き、小学生6年生の時には、上級部で5段の更に上の特待生までのぼりつめた。因みにこれはあくまで毛筆の話で、私の硬筆の字は至って下手である。

島野(仮名)勉強塾は、兄が通っていたために私も入ったのだが、島野さんのお爺さんが6畳余りの自分の隠居部屋を昔の寺子屋のように仕立てて、小学生に国語と算数を教えていた。

島野先生は、その頃何歳だったのか分からないが、顔面神経痛を患っていたのか顎をがくんがくんと動かし、授業の合間には高学年の生徒に肩たたきをさせたりして、当時の私にはひどく年寄りに思えた。でも、今になって考えると島野先生はきっと今の私の歳ぐらいだったのだと思う。ともあれ、この島野勉強塾のおかげで、小学校時代の私の成績は常に上位であった。

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