一郎と純二と宏はこの長い坂道を下って小学校と幼稚園に通っていたのです。小学校に通うようになって、純二は住所を覚えさせられました。母の春子さんが、

「小学校は遠いのよ。電車に乗って通わないといけないのよ」

と厳しく言いました。

「分かったよ。もう覚えた。住所は豊中市芝原32の1 ○○○でしょ」

と応えると、

「迷子になったら、名前と住所をちゃんと言うのですよ」

と春子さんに練習させられていたのです。

北校の建物は戦時中に敵機てっきに狙われないようにと目立たない黒に近い濃い紺青色に塗られて、戦後も長くそのままの色でした。 北校の丘を反対側に下ったところに、理系の研究室や実験室のある建物があり、その向こうに〝法文〟と呼ばれていた建物がありました。さらにその裏に、木々に囲まれた体育館がありました。

一郎は学校から帰るとよく純二を誘って体育館に行って、柔道や剣道などの運動部の練習を見に行くのが楽しみでした。そこで技を見ていたので、休日に一郎は父の和夫さんに、

「お父さん、柔道の足技をかけて」

とせがんでいました。和夫さんは柔道の経験があったので、一郎は技をかけてもらうのが楽しみでした。また、一郎と純二は新聞紙を丸めて剣道の真似をして遊んでいました。

山田和夫一家が暮らしている木造2階建ての大学会館は、広い運動場を見渡す位置にあります。学生が使うことを念頭に建てられたもので、玄関には名称を墨書された大きな木額がかけられていました。玄関の前には前庭があり、大きな黒松の植栽を中心にしたツツジの植え込みと庭石の石組みは意欲的な造園がされていたことが分かります。

しかし、戦後は植栽の剪定せんていもされず、伸び放題でした。

玄関には多数の人が使えるように壁一面に下足箱が設置されていました。玄関から廊下を突き当たると風呂場があって、総タイル張りの大きな風呂は10人でも一緒に浸かれそうな浴槽でした。蛇口の並んだ広い洗い場にはシャワーも並んでいます。また、玄関から左に行くと40畳以上の広さのある広間があって、運動部の合宿にも使われていました。時折、学生のコンパが開催されている日は、すき焼きの香りが立ち込めていました。

【前回の記事を読む】【小説】小学校までの危険な道。特に怖いのは、山の上の火葬場で…。