「商社の真骨頂はいかに先を読んで行動するかである」
中川館長は酒を口にしながら断言した。山倉教授が言葉をつないで言った。
「堺の商人も同じようですね。自分たちの権益を外敵から守るために自衛組織を作った。運営は旦那衆の合同会議ですべてを決めていましたから」
館長は悠子に言った。
「津島の経済力、文化度を調べる必要があるな。きっとそこから信長に与えた影響があるはずだ。少年期の感性が大人になって開花する例は多い。子供の頃の方こそ、感受性が強いからだ」
それからはうまい酒と料理と、たわいないおしゃべりで過ごした。
悠子は優に話しかけた。
「津島について調べはできたかしら」
優は答えた
「古地図を見ますと当時の木曽川はもっと東に流れていたようです。木曽川のすぐ東側に天王州川が流れており、その川と日光川の間に津島があったようです。それらの川は運河のように利用され沢山の船が行き来していたと思います。津島港の特徴は美濃、木曾、飛騨の産物と伊勢、三河、知多の産物との交易を交わしていました。日本でも有数の貿易港です。当然大きな問屋が数多くあったようです。伊勢湾交易が盛んになり始めていました。その証拠の一つに木曾三川つまり木曽川、長良川、揖斐川のかなり上流まで川船が帆をかけ行き来した記録が残っています」
悠子は言った。
「私が育った美濃市には下有知港があって今も川灯台が残っているわ。特に美濃特産の美濃和紙は高価な産物として各地に運ばれたようね」
「揖斐歴史資料館に行きますと揖斐の奥地から木材は勿論、薪に炭、干し山菜、そして川石まで川下に送られたと記録が残っています。良質な川石は建物の基礎や石垣に使われました。揖斐石は形よく、硬度もあって珍重されたようです」
当時の津島は大勢な人が賑う港町であった。そこには大店や倉庫が数多く連なっていた。運河には帆をたたんだ川船が何百艘も繋留されていた。
吉法師は勝幡の城から津島の町へ歩いて向かっていた。
お供は五郎八という若武者と小者の爺の二人である。月に一度は津島の大橋屋へ行くことになった。これは五郎八と取り決めている。十歳になっても相変わらず茶せん髷であったが、着るものは普段よりこざっぱりとしている。吉法師は信長の幼名である。五郎八は二年前、信秀から命じられて近習役になった。今年で二十歳になったばかりである。後の名は金森長近と名乗る。
大橋屋は間口十間、奥行き十八間あり津島屈指の大店である。この店に信長の父、信秀の妹が嫁いでいた。