しかし、五月六日は過ぎてしまい、敏三はとても不機嫌になった。そしてその二週間後に亡くなった。この話を聞き、最期の最期まで大好きな父を思い、父が迎えに来てくれると信じていた敏三の気持ちがわかるような気がした。
木下家の兄弟たちは、両親に愛されて育ったことや、父母ほど好きな人間はいないことをそれぞれ語っている。由紀太の話を聞いて、敏三もまた、そんな木下家の一人であったと、改めて思ったのである。
恵介亡きあと、北鎌倉円覚寺の墓に眠っていた祖父・周吉、祖母・たまの遺骨は、忠司の手によって浜松の敏三の墓に移された。血が繋がらない恵介の三人の養子たちが、大好きな父母の墓守をすることを、木下家の長となった忠司はどうしても許せなかったのである。
八郎は、ようやく兄・恵介が父母と一緒になったのだからと反対したのだが、兄の言うことには従わなければならない。浜松で一番長く暮らした敏三とともに、祖父母は浜松で安らかに眠っていることだろう。
五男 忠司 ── 素晴らしき音楽家
忠司は一九一六(大正五)年四月九日、父・周吉、母・たまの五男として「尾張屋」があった浜松市伝馬町で生まれた。
活発な兄であった四歳違いの正吉は、子供時代おとなしかったこの弟・忠司をとてもかわいがって、遊ぶときは一緒に連れて行った。小学校三年生くらいから映画に関心のあった正吉は、当時浜松にあった五つの映画館を回って映画を観に行っていたが、いつの頃からか忠司もあとについて来るようになり、映画好きな少年になった。