主題ハ長調
「弾く」と「聴く」
和枝は柔らかいタッチでピアニッシモの感触を何度も何度も試していた。
そう、ここは浜風ホールではなく中野坂上のベーゼンドルファーのショールームだった。
音を聴きながら、美しく交差する弦の配列を見ているうちに、廉は彼女と出会った頃の記憶にどっぷりはまっていた。
きょうはショパンの幻想ポロネーズをメインに試弾していた和枝だったが、ものの二十分ほどで四台目のピアノから離れると「うん、どうもありがとうございました」とあっさり店員に挨拶していた。
「え? え?」廉の方がどぎまぎしてしまう。
「あのベーゼンドルファーだよ。もういいの?」
「いいのよ。ホールで、しかもコンクールという特殊な状況で出会ったからベーゼンドルファーは特別な楽器だと思い込んでいただけ。それももう昔の話。いま弾いてみてはっきりした。とっても美しい音が出るけど私には向かないわ。これだったら、慣れ親しんだ国産メーカーのピアノの方がわかり合えるかな」
休日に、わざわざ東京まで出てきたのだからと和枝と廉は次の目的地に向かう。
日本橋の百貨店で「ピアノ三大名器フェア」と銘打ってスタインウェイ、ベーゼンドルファー、ベヒシュタインが一堂に揃う企画展をやっていたのだ。
和枝はドイツ製のベヒシュタインから試弾を始めたのだが、「ほかのピアノの音と人の声が渦巻いていて自分の音に集中できない」と、早々と弾く手を止めてしまった。廉は居並ぶピアノ群の間を一人で歩いていた。
このうちの一台を自宅二階の和枝のレッスン室に入れたらどうなるだろう。今ある一台とどういう配置で並べようか。そうだ椅子もコンサート会場のような背もたれのないタイプを買ってあげないとなあ、と練習環境の充実をいろいろ思い描いた。
目の前にあるベーゼンドルファーはやはり重厚かつ格調高い美術工芸品だ。
そして久しぶりに見たスタインウェイはシンプルでスマートだった。いつの時代にも適応していける生命力、言いしれぬ迫力をそのたたずまいから感じていた。