「一郎の幼稚園と、来年から行く予定の小学校に行ってみたよ。豊中にあんな寂しい道があるとは、驚いたね」とおじいさんが言いました。
「そうなのです。毎日、幼稚園から帰ってくるまで心配で」と母の春子さんは応えました。そこで、おじいさんは、
「二男の純二を預かってきたがね、無鉄砲で何をするか予測がつかないよ。純二をあの道で小学校に通わせるのは危ないのではないかね」と言いました。
純二は、物心つく頃から田舎のおじいさんのところで育てられていて、あちこち近所に迷惑をかけていたらしいのです。父の和夫さんが大学から帰ってきて、おじいさんと話し合いになりました。
「一郎はおとなしいですけど、純二は心配です。兄弟は同じ小学校へ通わせないといけないから、一郎の入学時から別の小学校を考えてみます」と和夫さんは応えました。
このような経過で、長男の一郎と二男の純二を知り合いの家に寄留させて、校区外の小学校に通わせることになったのです。
大学会館の裏には山があって、真っ直ぐに10メートル以上も伸びた大きな赤松が一面に生えていました。下草や小木は刈られていて、よく手入れがされています。
そこは第二次世界大戦後接収されて、進駐軍(アメリカ軍)のキャンプとなっていたのです。山の中腹から頂上にかけては、小さな洋館がいくつも建てられていました。それらの建物は壁は白いペンキで塗られていて、屋根はオレンジ色の瓦で葺かれていました。山の斜面に沿うように幅の広い道路があって全て舗装されていました。小さな洋館の周りは芝生の庭で、それぞれの洋館は30メートル以上の間隔 があけてあります。大阪のどこにもない景色でした。
純二が兄の一郎に、「誰が住んでいるのか知ってる?」と尋ねると、
「あれは進駐軍の将校さんの宿舎だよ。アメリカは広い国だからゆったりした住宅地なのだよ」
と教えてくれました。そう聞いても純二はよく分かりませんでした。