屋号みかどの由来は「十坪の我が家が三角(みつかど)にあったから」というとてもシンプルな理由でした。戦後のベビーブームで、当時の大島には子どもたちがたくさん暮らしていました。人数が多いので、小学校は午前と午後の二部制で、両親が始めた駄菓子と貸本屋のみかどには一日中、子どもたちで溢れていました。

下町の大島は、とにかく子どもたちの声が賑やかでした。

店の外では、「バーカ、カーバ、チンドン屋、おまえの母さん赤出べソ!」とからかう声が聞こえたかと思うと、突然に甲高い泣き声のすぐあとに、取っ組み合いのケンカに発展。やがて、「こらぁ! ケンカしたらダメでしょ!」と叱るおばさんの声が町中に響き渡ります。

リヤカーで廃品回収業をしている江川さん老夫婦は、冬になると焼きいも屋に変身して、毎日チリンチリンとベルを鳴らし、「焼きいも、焼きいも」という決まり文句を発しながら、地下足袋姿で町中を歩いていました。

また、戦争で身体が不自由になった父親がいる家族は、お母さんが大黒柱として一日中働いていました。子どもたちも朝早くからあさりを売り、新聞や牛乳配達をして、家計を助けていました。

アメリカ陸軍の制服を身にまとった黒人の旦那さまがいる一家が町内に住んでいたので、子どもたちは大きな身体をした彼の後ろをついて歩いたものです。さすがにギブミーチョコレートの世代ではありませんが、私も彼の後ろをついて歩いた記憶があります。アメリカに憧れを抱いていた子どもたちにとって、彼の存在はとても興味深いものでした。その軍人さんには、日本人の奥さんと娘さんがいました。

また、ロシア人とのハーフの可愛い女の子も住んでいました。みかどが開店した昭和三十年の下町は、現代にも負けず劣らず、インターナショナルな世界でした。

野球をしてよその家の窓ガラスを割ったり、植木を壊したり、うるさくしていると、近所のおじさんが「こらぁ!」と言いながら、(ほうき)を持って家の外に飛び出してきます。子どもたちを追いかけて来るおじさんから逃げるのですが、捕まって、叩かれたりしていました。

いまと違って、いたずらをする子どもがいたら、赤の他人からでも叱られるのが当たり前でした。

そして、叱られた子どもの母親は、菓子折りや果物を持って、頭を下げて回るのです。そうやって、町全体が子どもたちを育てていたのです。

大島という町が一つの家族のようなものでした。とはいっても、人間関係の難しさはいまも昔も変わらないようです。

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