天びん棒かついでの水汲み
中学一年になったばかりの私が、家事一切をこなす事は、とても大変な事でした。これまでの恵まれた生活の中で、お手伝いと言えば、鰹節を削ることと新聞紙を包丁で切って、トイレの紙にすること位でした。
当時新聞紙はトイレの紙や鼻紙に使っていました。鼻をかみ新聞紙のインクで鼻の周りを黒くした友達が大勢いましたが皆そうなので笑う人もいませんでした。
私は中学生でしたが、それでも力の要る仕事は大変でした。水は五十メートル程離れた所に、つるべ井戸がありました。そこから天びん棒を担いで、大きなバケツ二つの水を何回も運びます、炊事やお風呂の水にするのです。
父や兄が家にいる時は、いつも手伝ってくれましたが、それはほとんど私の仕事でした。洗濯は父と兄弟合わせて五人分です。タライに入れ固形の石鹸をつけて、洗濯板にこすりつけるようにして、ゴシゴシ洗います。
洗濯物と一緒に手もこすってしまうので、右手の指の関節は皮が剥がれていつも血が滲んでいました。その傷が治らないうちに日曜日になり次の洗濯が待っていました。冬は痛みがひどく赤く腫れ上がっていましたが、その手をじっと眺める暇さえありませんでした。
道を隔てた向かいの家は、両親と子ども二人の四人家族でした。私は挨拶をする位で、言葉を交わした事はありません。その家も庭が無く、母親は家の前で洗濯をしていましたが私の方法と少し違っているのです。
見ていると洗濯板を使わずに、タライの水の中に、何か粉のような物をパラパラと入れその中で泡をブクブク立てながら、軽くもみ洗いをしていました。その初めて見る泡の出る不思議な粉は何なのか、まるで魔法を見ているようでした。多分私は、目を丸くしてボーっと立っていたに違いありません。今思えば粉石鹸なのでした。
夏になると、母が手紙にナスとキュウリの漬け方を、細かく書いて送ってきました。
「ナスは塩水のまま漬けるんだよ。キュウリは塩水を煮立てて、熱いうちにキュウリに掛けて漬けるんだよ」
と書いてありました。そうするとパリパリしたキュウリになり、歯ごたえ良く漬かるのだそうです。書いてある通りに上手く漬けることが出来、父は美味しそうに食べていました。父の嬉しそうな顔を見ていると、母は父のために漬物の手紙をくれたような気がしました。
元気な頃の父はご飯の時に、
「お母さんの漬物は一番美味しい」
と言っていたからです。そして、
「漬物の美味しい家にはね、お金が貯まるんだよ。うちはお母さんのお陰だね」
と満足そうに言っていたのです。私も美味しい漬物を作れば……と思っても、今の状況でお金が貯まるはずもありません。私は漬物を食べながら、昔の食卓と元気な頃の父を懐かしく思い出し、少し幸せな気分に浸っていました。