「我、平家の重恩を受けること二十年。源氏の勢い日々に強大となるも、臣下たる者、いかでか主人に弓を引けようか!」
祐親はあくまで平家に義理を立て、平家の軍勢が富士川へ下向したことを聞いて、海路、三島へ急行。そこで壮絶な戦いを繰り広げるも、衆寡敵せず――武運拙く、縄でからめとられてしまう。
頼朝の喜びはこの上ない。……というのも、頼朝は旗揚げするにあたって、他の誰よりも、坂東随一と名高い伊東祐親こそを後ろ盾にしたいと望んでいたのだ。それが当てが外れて敵となったのだから――その怒りは収まらない。
「いかに祐親。平家に従って源氏に敵せんとした、その罪は軽くはないぞ……。今日、このような有様となったのは、天が貴様に罰を下したゆえだ」
が、祐親は少しも命を惜しみはしなかった。昂然と頭を上げ、ゆうゆうと余裕さえ見せて、
「わしは平家に山のごとき恩を受けた身。武士たる者、仕える家に尽くしてこそ誠の忠功。何の恥じることはないわ。さっさと首を取るがよかろう」
と、さらに屈する色もなかった。この老武士を惜しんで、多くの坂東武者が「命だけは」と助命嘆願したが、誇り高い祐親は
「恥を忘れて、人前に出ることなどできぬわ」
と、進んで打ち首となったのだった(自害だったとも言われる)。またこの時、祐親の次男、祐清も捕らえられ、幽閉の身の上となっていたが、彼は以前頼朝の命を救ったことがあったために、
「特赦とする。頼朝に仕えよ」
と命ぜられた。だが祐清もまた、首を振ってこれを断る。
「祐清は平家の恩を受ける身。男子一たび決しては、たとえいかなる恩賞をたまわるとも、志を変じることなど思いもよらぬ。もし一命を助けられたならば、祐清はすぐにも平家にはせ参じ、佐殿(頼朝)に弓を引くだろう」
頼朝はさすがに恩人を打ち首にすることはできず、祐清を釈放したが、彼は直ちに平家の元へ戻り、そのまま壮絶な討ち死にを果たしたという。
かくて、頼朝は日の上る勢いで勢力を伸ばし、西海に平家を滅ぼし、鎌倉に幕府を築いて源氏栄華三代の基もといを開いた。一方、伊東の家は祐親、祐清を失い、完全に滅び去ってしまったのである。
それにしても――祐親といい、祐清といい、忠功を重んじ、武士の意地を命がけで貫く、鉄のごとき勇士たちである。先見の明がなかったわけでも、時代に取り残されたわけでもない。滅びることを承知の上の、武士の矜持。この十数年後、仇討ちをはたして日本全土に名を轟とどろかせた曽我兄弟たちは、祖父祐親から伝わる、この家風を受け継いでいたに違いない。