恵介は人垣の中に、兄と友人の姿を見つけた。二人は行進に歩調を合わせて、どこまでも横について行った。名古屋駅のホームでは汽車が動き出してからも、敏三は正吉の名前を呼びながら走って手を振った。
恵介は、父・周吉と笑顔が似たそのときの敏三の顔が忘れられなかったと、のちに日本経済新聞の連載「私の履歴書」に書いている。一九四四(昭和十九)年の映画『陸軍』の行進場面で、入隊する息子をどこまでも追いかける母の姿として描いたのである。
恵介はその後怪我で帰還し松竹に復帰したが、終戦の半年前、東京蒲田にいた母・たまは、空襲に驚いて脳溢血で倒れてしまった。詳しいことは、第二部「蒲田から辻堂へ──松竹入社、監督としての出発」に書いてある。
浜松も空爆の危険があったため気賀に疎開していた家族は、さらに山奥の気多に避難しなければならなかった。敏三は恵介とともに、十七時間かけて病身の母をリヤカーに乗せて運んだ。このときのことは、恵介生誕一〇〇年時に映画化された『はじまりのみち』に出てくる。(第二部に掲載)
映画は、恵介が中心に描かれているが、敏三もまた最愛の母・たまのために、必死で行動したことを記しておく。
終戦後の一九四七(昭和二十二)年には、恵介が辻堂に建てた家に父母が引き取られて行った。敏三は浜松の田舎家で、しばらくは家族とともに農業をしながら自給自足のような生活をしていた。
しかし「尾張屋」を復興させる人間は敏三しかいない。もともとは商売よりも文学や歴史を勉強したかった敏三であるが、千歳町の土地を半分売ったお金で小さな「尾張屋」を始めた。妻のみつゑと夫婦二人だけの商いで、佃煮や漬物を作って店に並べ、近所の人が買いに来ていた。
敏三が骨董や刀剣を本格的に集め出したのは、戦前からだった。子供時代お金にはまったく鷹揚だった両親のおかげで、好きな骨董品を少しずつ集めていたのだ。敏三は、戦後次女と長男を成したが、長男の由紀太はのちに、父の志を継いで骨董の勉強をし、骨董屋になっている。
一九五六(昭和三十一)年頃になると、敏三は恵介から、八郎が出ていったあと困っているので、家の中のことやお金の管理などをやってくれないかと頼まれた。そこで千歳町の店と三人の子供をみつゑに任せた敏三は、留守にすることが多い恵介の辻堂の家に行った。その頃の恵介は、やはり身内の人間に頼みたかったのである。