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篠原は白川郷に通い始めた。しかし謎解明の手がかりは全然なかった。村の人に、
「こんな素晴らしい建物を作れたのだから、この村はかなり豊かだったんですよね?」
水を向けても、最初の河田本家の受付の人と同じで、みんなイヤな顔をして、誰も取り合ってくれない。もの凄く排他的だった。
民宿に泊まって夕飯の後片付けなど手伝いながら質問すると、少し答えてくれるくらい。それも、予想した答えとは逆に、
「貧乏でおぞい(粗末な)暮らしやで。オレは馬も食べないフスマを食べてたさ」
「よい繭は売ってまうで。自分の家のは、売れないおぞい繭から糸を取って、さらにおぞい繭からは真綿を取って。何でも自分で作るしかないの。貧しくて、貧しくて、働き通し」
というような話が返ってくる。さらに突っ込んで聞こうとすると、今度は民宿の人たちも、ピタッと口を閉じてしまう。よそ者め、もう何も言うな、という空気が流れる。そこからは一歩も中へ踏み込めない。
白川郷に通い始めてから一か月近くも経つというのに、どうしても取材が進まない。篠原は、この村は外から取材に何回通っても、何もわからないのではないかと思った。この村に住み着いて、朝から晩まで毎日暮らせば、しだいに警戒を解いてくれるようになり、やがてはなぜ貧乏な村が和製ビルディング群を建てられたのか、という謎が解明出来るのではないか、と思った。それには民宿に何泊しても、お客のままではダメだ。ごく普通に村の中に住み着かなければならないと篠原は思った。
篠原は緑川に白川郷の長期取材を申し出ようと思った。三千メートル未満の任地の責任を全う出来なくなるので無理かもしれなかったが、思い切って言ってみた。すると緑川は意外にも、
「やりなさい、どんどんやりなさい。下界もオレが見ているから」
簡単に了解してくれたのだった。そして普通ならば、どんな連載物を考えているのか、事前に企画書を提出するように言われるのに、何も言わないのだった。篠原の方から話そうとすると、緑川は、
「取材は現地現物だよ。まず、暮らしてみることだ。季節物の写真を送ってくれたら、それだけでも岐阜総局は喜ぶよ」
あっさりしたものだった。これで、六月中旬から七月中旬までのまる一か月、場合によってはさらに八月前半二週間の延長可という白川郷での長期取材が許可されたのだった。七月中旬に飛騨支局に戻らなければならないのは、緑川が、
「オレ、七月後半は山小屋取材に入ってしまうから、その間は、いてくれると助かるなあ」
ということだった。