「神様の正しさ」を定規として解釈し、「無謬である意味づけ」を引き出さねばなりません。人間的には不可能と思える「御言葉の約束」も、聖霊の力(助け)によって現実になります。この「権威を信じる+行う」のがキリスト教です。
尚、ここで「信じるだけ」では信仰は完成しません。使徒ヤコブは『新約聖書』「ヤコブの手紙」で、「行いのない信仰は死んでいる(「ヤコブ」2:26節)」と、クリスチャンが「認識間違いをしないよう」警告しています。本来、聖書は誰にでも理解できるように、単純明快な言葉遣いで書かれています。
従って、前後の文脈で何を教えたいのかを捉えながら、「霊の導きすなわち神様は正しい」とする立場に立って、その言葉一つひとつをその意味通りに読み解いてゆけば、必ず正しい理解に至ることができます。文意の辻褄が合わない原因や、訳語が正しくないことが、自ずと炙り出されてきます。
この主張の根拠は何でしょうか? それは神様がアダムを創造した時、神様の性質を彼ら(男と女)に分け与えていることです(以下各節著者注:人=アーダーム=彼ら=男と女)。
「創世記」
1:26そして神は言われた、
「われわれのかたちに、われわれの似姿に、人(アーダーム)を造ろう。そして彼ら(男と女)に、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地を這うすべてのものを支配させよう」
1:27そこで神は、ご自身のかたちに人(男と女)を創造された。神のかたちに彼(アーダーム)を創造し、男と女とに彼らを創造された(アーダーム、男と女)。
2:7神である主は、土地(アダマ)のちりで人(アダム)を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きる者(霊の繋がりがある者)となった。
「われわれ(三一性の神)に似るように、われわれのかたちに」と、男女が創られたのだから、人間には神様が持っていた霊(いのちの息)と理性・感性が移植されています。従って私たちが御言葉に矛盾を感じたり、常識的論理に反する、筋が通らないと感じるなら、神様自身も「その考えや解釈・捉え方はおかしい」と、同じ判断をしているのです。
だから御言葉の解釈は、霊に導かれ(神様は正しいとし)ながら、素直に納得できる論理性を見出すまで掘り下げなくてはなりません。そのためには、必要なら最低限「新欽定訳聖書」原典で調べなければならない場合もあります。
神様が、同じ感性を持つ人類に教えようとして書かせた書物だから、筋が通らなかったり、矛盾する内容である筈がなく、もしもそのように捉えられないなら、読者の読み方が必ず間違っているのです。
この聖書の読み方は、①神様は絶対的に正しく矛盾はない[霊的正当性]とし、②科学的知識、歴史的考察、普遍的常識によって、論理的に聖書の御言葉を解読した結果です。