後漢
紀元二十五年、光武帝が洛陽に後漢を建国する。儒教の官学化(国定教科書)による思想統一を図って、徳をもって国内を治め、武威をもって対外に対処するために冊法体制(官位を授けて統治する:守護地頭制度に類似)を実施する。
「漢委奴国王」(卑弥呼)、「漢匈奴悪適尸逐王」(南匈奴の王)などの「印」(印鑑)を作成して朝貢国に与えて外交関係を築く。儒教精神を行き渡らせるために「四書五経」(儒教の中で特に重要とされる教え)が作成される。
特に五経の中の礼記から独立した大学と中庸の精神が強調されて、修身・徳・平天下など帝王学(人の上に立つ者が学ぶべき教え)ともいえる項目が選定され、この思想を朝貢制度の根本におく。魏の時代に台与(卑弥呼の親類)が魏の皇帝に生口(奴隷)を三十人、白珠(真珠)五千を献上している。
倭の王たちは、貢物をすることによって、見返りに倭国王や安東将軍や鎮東将軍、征東将軍などの肩書を頂いている。倭国王は肩書を得ることによって、当時の朝鮮半島諸国に対して優位を確保することができたようである。
これは二重朝貢(小中華)制度として地方圏への権限の委譲ともいえる緩やかな統治である。この時代はやがて政治や社会の不安から官学としての儒教精神が衰退して、末法的な考え方を持つ仏教や無為自然(なるがままに任せる)を説く老荘思想などが広まるようになる。それによって乱世となり魏・呉・蜀の三国に分裂(当時の中華を世界としたら米・中・露に勢力が分裂したようなもの)して天下を三分した抗争に発展する。
程なく南北朝の戦国時代へと向かう。思想(イデオロギー)の乱れが世の乱れとなった。ロシア共産主義インターナショナル(コミンテルン)の思想闘争による世界の乱れと重なる。中華帝国にとって儒教は、国家の統制と存続にとって重要な実用道徳といえるものであった。
儒教は思想であってキリスト教やイスラム教のような宗教とは異なる。政治と宗教を一緒にした実践哲学とでもいえようか。しかし、その精神的な束縛性は今日のキリスト教の比ではなかった。従って儒教を正しく理解し、その精神が世に行き渡っていたら、すなわち法と教育がしっかりしていたら、中華王朝は安泰だったといえる。
現在の中国の習政権は初等教育から徹底して習近平語録を学ばせて、性悪説の法治主義の下に思想と愛国心の強化(マインドコントロール)を謀って習帝国の安定と長期化を図っているといえる。