第一部 私と家族と車イス

運命の真実

そんな時の流れでいう事実を認めたくない否認の時期は、神様にすがること3ヵ月ほど。神社通いや寺社巡り。血眼になって神頼みをしていた。三人の子を連れてフラフラと、異様な光景だったと思う。県外の神社へ夜中に出発し、山を登った先にある神社へ三男はおんぶ紐でかつぎ、ひたすら長男や次男を登らせて行ったこともある。

いろんな神社のお守りがおんぶ紐にどんどんぶら下がっていった。異様な格好だと今は思う。ただ数が増えたら叶うとしか思わなかった。ただ、それだけ。夏休み中は、集中治療室へ通い、神社に通い、帰宅しても眠れず、惣菜ばかり買う生活。私は名前だけの母で、閉塞感でいっぱいの子どもたち。家族全員が異なる意味で、閉塞していたのだろう。

ただ、一番幸せだったのは、我が子三人の顔をお父さんが見たら、生きる気力になるかもしれないからという集中治療室の方々の計らい。顔見知りがいて現状が周りに知られても夫には毎日子どもたちに会わせたい。それはとても鬼気迫っていたのかもしれない。貧相な格好で三人連れて、集中治療室の前でウロウロと、座ったり立ったりしているから。

学生時代の先輩の働きかけもあり、看護師長はじめスタッフの皆様のご厚意で、毎日集中治療室へ子どもたちを連れての面会が叶った。人工呼吸器や点滴ルート、頭部の牽引、フットポンプ、心電図、蓄尿バッグ、オムツ姿のお父さんを見ても変わりなく目の前で喧嘩したり、日々の出来事を話したりしてる長男・次男とおんぶされた三男。

彼らを触りたくて仕方ないお父さんを囲んだ集中治療室の風景を撮っておきたかったなぁ。

ただ言えることは、夫と私の立ち位置は互いに異なるが、本当に懸命であった。当時は二人とも生きるのが本題だった。その一言。睡眠もある意味で取れてなかったはずだ。明日は生きているのかなときっと互いに考え、明日は痛みがとれているのかなと互いに考えていた時間。心にゆとりがなかった心同士。それでも私は自分よりも夫を考える私がいて、自分しか考えられない疼痛の真っ只中な夫であった時間。

思い返せば、もしかしたら子どものことを二人とも考えてやれなかった時間でもあったような時の流れだ。時計の進み方が半端なく嫌いだった。

挿絵(昆布を持ちながら作業服姿の夫)

それまでの夫は立って歩いて作業服を着ていたのに。戻らない、進んでも変わらない、嫌悪感のある時の流れだったろう。ただただ、毎日が山場の夫を見ながら懸命に会いに行っていた。明日が訪れることも奇跡なんじゃないかと容態を気にして眠れずにいた。