第一部 私と家族と車イス

夏の空模様のように

見上げた夏のあの日の空は、一難去ってまた一難の言葉のように晴れていても不安だった。また台風が訪れる前触れの気持ちかもしれない恐怖に襲われて、いつになれば夫に症状軽快、安定などが訪れるのだろうと思い苦しかった。無事に手術までたどり着けたとしても、急変の言葉しか頭をよぎらないほど不安で仕方ないのに、見上げた空は晴れていて、おんぶしている三男はケラケラと笑ったり寝ていたりしている。

何も理解できないからこその三男のあどけない笑い声が背中から聞こえる。そんな日に神主さんの振る舞い、それとも労い。探るつもりもなく、状況を察してただひたすら私の話に頷いてくれた神主さんの存在に救われた。今思い返しても、あの年の夏は本当に感情も出来事も何もかもが目まぐるしかった。

優先順位

8月27日、ついに長い手術も終わった。

生きている。

かろうじてひとつまた山を越えたんだ。そこからはルートが1本、また1本外されていき、リハビリ期に徐々に入っていく。長男からしてもこんな夏休みの出来事はあまりに大きすぎただろう。秋になり、登校が再開された日の長男の背中は、なんとも寂しそうで辛そうだ。息がしにくい状況でも教室へ行ってたんだろうなと思う。

学校から帰ってきてもまだお父さんが帰ってきてない家で、弟たちのため懸命に父親の代わりをしていたんだろうなと思って、ハッと目が覚めて……。長男が背負う荷物は、幼いのに、あまりにでかすぎる。まだ小学2年生。それに気づいていたのに子どもへの配慮がきっと私には欠けていた。

夫も子どもも大事、でも体が動かなくなった夫をスタッフに任せとけばいいものをそれができず、立ち止まらず駆け抜けた日々だった。子どもと夫をとにかく会わせたい、お父さんを忘れないで欲しいからと必死だった。でも、会う回数は関係ない。見えない絆はある。生きる気力を夫に与えられたら、子どもたちに命の大切さを感じとってもらえたらというのは押し付けだったかもしれない。ここまでくると強迫観念……。

もし、いつの日か子どもたちに、「お父さんの次が僕たちだったね……」ともし言われたら、ただの押し付けだったと謝ろう。反省しよう。子どもの目線をもう少し考えられる余裕があのとき本当に無かった。

目まぐるしく変わる夫の身体状況。主治医からは慢性的に完全麻痺は100%に近いと言われたのに、日々日記に目についた変化や心境、子どもたちの様子を殴り書きし、面会のときに子どもを会わせて洗えない手や足を拭ってあげて子どもの日常の出来事を聞かせて一緒に時間を共有することをただひたすら優先的に考えていた。

自宅だったら、ただいま、おかえりと、会い、そばにいる当たり前のことすらも、入院していたらできないのだから。