「牧師の奥さん」
カトリーヌの願いは叶わなかった。
牧師さんが訪ねてきた翌日、カトリーヌはワルツさんに言った。
「じいさん、この島を出ていく前に私ここの本をできるだけ読んでみたいの。ミルクの配達が終わったら毎日来てもいいかな」
少しの間、邪魔しないように静かに本を読むだけだから、とカトリーヌはホウキのような黒髪を揺さぶりながら、ワルツさんに向かって何度も頭を下げた。
「好きにするがいいさ。カトリーヌ」
手をひらひらさせて、ワルツさんはカトリーヌから目をそらした。カトリーヌは二週間後にひとりで船に乗るという。
「リュシアン、カトリーヌはひと言も愚痴を言わないが、わしはあの子は牧師夫妻に可愛いがられていないように見える」
「同じ年頃の娘たちと机を並べて勉強もさせてもらえていないようだ」
「ずいぶん前にカトリーヌの母親が死んでからというもの、牧師夫妻はカトリーヌにひどいことを言うらしい」
大陸の救貧院に身を寄せていたカトリーヌ親子が、牧師の勤める「イングラム学院」で働き始めたのは十年前。それから三年ののちにカトリーヌの母親は死んだそうだ。
僕は救貧院での暮らしを思い出していた。カトリーヌの母親のアンジェは綺麗な肌と綺麗な瞳をしていた。アンジェの黒い髪は彼女の肩でいつも揺れていた。子供たちに向ける眼差しは、どの子に対しても公平な愛しさに溢れていた。カトリーヌはそんなアンジェに大切に育てられた。肩寄せ合って生きている彼女たちの姿を僕は今、はっきり思い出すことができた。
アンジェの手からはいつも石鹸の匂いがした。その手は柔らかく僕を撫でてくれた。あのアンジェはもうこの世にいない。僕の胸は張り裂けそうになった。窓の外にざらついた闇夜が広がっていた。
僕はカトリーヌが過ごしたすべての夜を想像してみたけど、ここに来るまでの僕のどこかの夜と違わないことがわかっただけだった。