バラック小屋への転居
それは、突然のことでした。
昭和三十一年私が小学六年生の秋の頃、父の仕事がうまくいかなくなりました。これまでのマンガンの山を掘り尽くしたためか、石炭が出ると言う新たな山を買ったのです。ところが石炭はすぐ出なくなり、莫大な借金が残ったのでした。正に山師の勘が外れたのです。
父が、増築したばかりの奥座敷の布団の上で、両手両足をバタバタさせ、呻くような声で悔しがっていた姿を思い出します。それはこれまでの父からは、想像も出来ない姿でした。
それを目の当たりにした時、私は驚きと言うよりも、大きな存在の父が壊れていくようなそして父と共に、家も家族も崩壊していくような怖さを感じていました。
我が家の生活は一変しました。家の中の物は、布団と鍋釜以外全部運び出されました。
突然見知らぬ男の人達が四、五人来て、何も言わずに家の中の物を外に運び出したのです。母の真新しい桐のタンスやミシン、父の大きな机や本箱、座敷のテーブルそしてテレビももちろんのことでした。
運び出す物には、小さな紙切れが貼ってありました。
私は自分の大切な物が気になり、そっと座敷の床の間を覗いて見ました。案の定期待に反して二面あったお琴がすでに無く、ガランとしていました。
私の自転車も、入学の時買って貰ったチョコレート色のピカピカ光ったお気に入りの机も無くなりました。布団は後から来た布団屋のおばさんが持ち出そうとするのを、母が、「これだけは残して下さい。布団が無いと困ります」と必死に頼んだお陰で、かろうじて残ったのでした。
何が何だか分からないまま、青天の霹靂そのものです。気がつけば小さなバラック建ての家に、長兄以外の家族六人がいました。私と六歳違いの長兄は、当時家にはいなかったのです。中学・高校と宇都宮の学校に通うため下宿していたからです。
ガタガタっと戸を開けると、入り口に風呂桶と炊事用のカマドがありました。部屋は六畳間一つです。その部屋に六人が身体を寄せ合うように寝ると、ほとんど隙間がありません。
私はこの数日の信じ難い現実を受け入れることに精一杯で、心は空っぽになっていきました。この状況を受け止める戸惑いや苦痛を感じることさえ、どこかに置き忘れていたのです。
父は、仕事に失敗したショックが大きかったのでしょう。それからすぐ言動がちぐはぐになっていきました。母はなりふり構わず働きに出ましたが、田舎町の仕事ではとても食べてはいけず、引っ越して間もなく温泉町の旅館に出稼ぎに行ったのでした。
生活が変わると周りの友達も変わりました。
学校の帰り道の事です。ついこの間まで、私の自転車で楽しそうに校庭を走り回っていた男の子達が、私の姿を見つけると、「お前んち、つぶれた、つぶれた」と言って、遠くから大きな声ではやし立てました。
私は聞こえないふりをして走って家に帰ると、にこにこして迎えてくれる父がいました。父の顔を見てホッとすると同時に、言われた言葉を父にだけは聞かせたくないと思いました。
何もない寂しい正月が過ぎ、春が近づいてきました。この頃から想像もしなかった生活が始まりました。
小学六年生の私が、まだ小学三年生の弟と小学校入学前の妹の世話をしながら、家事一切をこの先何年も背負うことになったのです。突然の生活の変化に、それを出来るか出来ないかを考える暇も無く「やらなければならない」と言うのが私に課せられた命題であり、私自身に対する義務でもありました。