通りの途中看板に海抜表記が示されていた。伊勢湾海面より二メートル高と書いてある。ここから伊勢湾入口、桑名まで約二十キロメートルの距離があり、この間に弥富という町があり、さらにその向こうに長島がある。

当時は木曾三川の三角州にあたり、広大な葦の湿地帯であった。木曾三川とは西から揖斐川、長良川、木曾川となる。木曾川の南にあたる尾張の西北部を縦断して日光川があり、勝幡のすぐ西で木曽川に合流している。その合流点に津島がある。勝幡は日光川とその南に流れる三宅川との間に立地している。勝幡城の環濠はその三宅川の水を引き込んでいた。城のすぐ北側には日光川があり、水郷地帯になっていた。

勝幡城跡に着くと石碑があり案内板があった。案内板の主旨には次のように書かれている。

《案内板》 信長の祖父信定は、津島を支配下に治め巨万の富を得た。信長の父信秀および信長で尾張を統一した。

信長の躍進は津島を領域に入れたことによるとの見方が確定しているようだ。信長の歴史書にはあまり書かれていない事実である。

悠子と優はこの案内板をみて唖然とした。自分たちの思っていた歴史的常識をもう一度客観的に見直さないといけないことを自覚した。やはり現地に来て見る必要性を感じた。自分の足で歩いて一つずつ確かめなければと思った。

津島は勝幡からわずか三、五キロの距離であった。しかし、現在の行政において、勝幡は愛西市に属し、津島は津島市に属している。市が違えば大きな隔たりがあると思っていた認識が間違いのもとであった。現地に出向き、その場所を足で歩く調査の重要性を改めて感じた。

北野優は調査した事象を説明した。

「信長は勝幡に生まれ那古野城に移るまで約十年間住んでいました」

悠子は思った。信長は十歳くらいまでこの勝幡で育った。この地は信長にとって重要な少年期を送ったことになる。信長一生の基本的な性格を育んだ場所になる。いわば信長生涯の起点といえる。この地から日本を変える思想が生まれたことになる。

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