……史実では、満江はこのように素直に承諾したわけではなく、

「悔しい、悔しい……。あの人さえ生きていれば、こんなことには!」

と日々むせび泣き、何度も短刀で髪を切ろうとし、そのたびに召使たちに押さえつけられ、刃物をすべて取り上げられる。ついには

「河津の女房が出家しないよう見張れ! すぐにも曽我へやってしまうのだ!」

と、祐親から厳命を受け、ようやく

「こうなったらどうしようもない……。世の中には、子供のために仇と再婚せねばならぬ女もいる。それに比べればましかもしれない」

と考えて我を折ったという。こうして、ひとえに子供への情から再婚を決めた満江であったが――この子供らもまた二人して、母より先に若い命を散らせたことを思えば、何とも酷いことである。

なお、三人目の子供は無事に産まれたが、ろくに目も開かぬうちに親戚の手に引き取られた。この子は御房(ごぼう)(まる)と名付けられ、わずか十七歳にして二人の兄の跡を追って自害したことを付け加えておく。

時、まさに平安から鎌倉へ――武家社会が成立していく怒涛の歴史の中にあって、二度、三度と再婚させられる女性たち、また子に先立たれて生きる望みを失った女性たちも多かった。曽我物語は若き兄弟の英雄物語であるが、その端々には、男たちの陰で泣く女性たちの姿が垣間見えるのである。

満江と兄弟が河津の館を出、曽我へ向かったのは安元三年(一一七七)二月のことであった。旧暦の二月であるから、現代では春の盛り。伊豆半島の春はことのほか美しく、花は咲き蝶は舞い、川の音すら楽し気に響く。……けれども、これが故郷の見納めかと思えば、母子の目には何もかもが切ない。

途中、母子は亡き河津三郎の墓に寄った。満江は真新しい墓石にすがり付き、「あなた――河津殿」と、最後の別れを告げた。別の男に嫁ぐ上は、いつか自分が死んでも、同じ墓には入れない。

「わたくしはあなた様とお別れしたくありませぬ。別の人に嫁ぎたくはないけれど、御父上(祐親)のご命令に逆らえず、曽我へ行くのです。でもわたくしは、どこにいようとも、あなた様の菩提をお弔いしております。あなた様を生涯忘れませぬ」

横に立つ一萬が、

「母様 母様、お嘆き下さるな」

と嘆く母を慰める。そして彼は、自らも墓前に手を合わせ、こう祈ったと伝えられる。

「父上、これより母上のお供をいたし、曽我へ参りまする。仇の工藤祐経を討つまでは、どうぞ一萬と箱王をお守り下さい!」

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