ベスト・オブ・プリンセス
私の父は、食器こそは自分で片付けるものの、食べカスやソースの汚れが付着したダイニングテーブルを自ら拭くことはしない。そのことを指摘すると、決まって不機嫌な表情を浮かべながら、母さんならそんな細かいことは言わない、とスポンジに洗剤を垂らす私に悪態を吐く。
「時間は俺のほうがないんだから文句言うな」
そう言って父は、昨晩母がアイロンをかけた皺ひとつない綺麗なシャツを着て、玄関のドアを大きな音を立てて閉めた。
母は私が中学生になるタイミングで、近所のスーパーでパートを始めた。私が通う塾と大学進学の費用に充てるためだった。普段のシフトは昼の十二時から十八時だが、私が大学に進学してからは、講義が午後だけの日や急病などでシフトに欠員が出たときに、ヘルプ要員として早朝の五時半に家を出てオープン作業をしていた。そのため、母がいない朝は、私と父のふたりで朝食を摂り、その時間に発生する家事はなんとなくふたりで分担することになっていた。
一人っ子で、尚且つ高校時代まで部活動と塾を両立し、家にいるより外にいる時間のほうが長かった私は、大学生になってからできたこの父との時間に戸惑いを抱いていた。最初こそ、それは不慣れな家事手伝いに対しての単なる煩わしさからくるものだったが、作業に慣れてきた頃には別のものからくるものに変わっていた。父のあまりの生活能力の低さと、それを母が今まですべて補っていたことに気が付いたからだった。
「美夏、今朝はありがとうね」
大学の講義を終えて帰宅すると、リビングルームは作り立てのシチューの匂いに包まれていた。私は秋用と自分の中で決めているカーキ色のブルゾンをハンガーにかけながら、冬が始まった、と反射的に感じた。
「ううん。でもお父さん、本当に何もできないんだね」
今日も洗濯物干しまで私がやったんだよ、と言いかけたところで父が玄関のドアを開ける音がした。
「あれ、飲み会は?」
何食わぬ顔で帰宅した父に、母が少し慌てたように聞く。その様子を見て、私の心臓もつられたようにざわつき始める。
「なんか集まりが悪いから延期になってさ」
スーツの上着を無造作にソファに脱ぎ捨てながら、父はバツが悪そうに答える。それを聞いた母が、連絡が欲しかった旨を伝えると、ごめんごめん、と父は軽い口調でテレビを点けた。
「もしかしてシチュー?」
ネクタイの結び目を緩めながら発された台詞に、そうだよ、と私が答えると、父はさらに残念そうに顔をしかめた。
「うわ、連絡すればよかった」