積雪
まさにマニュアル通りといったような口調で沈黙を打ち破った職員の台詞に、真田が言うべきだと感じていた事柄が、すべて遠いどこかで無になってしまったような感覚に陥った。
今ここでは、自分の言葉や感情は、何の意味も為さない。そう悟った真田は、一方的に通話を切った。番号通知をたどって電話が向こうからかけ直されてくるのではないか、と一抹の期待を抱いたが、区役所からの着信は何時間経っても来ず、それが叶うことは永遠になかった。
その日の夕方、真田は窓の外でちらつく雪を見つめながら、ため息を押し殺した。そしてまぶたを閉じ、悠希が生まれた日からの記憶を、彼女の姿を鮮明に脳内に映し出そうとした。しかしながら、それをしようとすればするほど、彼女の顔や取り巻く景色、隣にいたはずの自分の表情すらもぼやけていった。その得体の知れない現象に怯え、真田はおろおろと立ち上がり、洗面台の鏡の前に立ってじっと目を凝らした。そこには老いた男が一人いるだけだった。
「悠希ちゃんのことを引き止めることは、私は誰にもできなかったと思います」
浅い眠りから真田の意識を引き戻したのは、莉子からの着信だった。昨日の自分の通話の終わらせ方を詫びる莉子に、真田は弱々しい声色でその謝罪を撤回させつつも、話の続きを求めた。彼女もまた、それをできるだけ慎重に、雑味を加えずに伝えようとしていた。
「何が起こったとしても、誰のせいでもない。誰にも迷惑をかけたくない。最後の電話で、そう言っていました」
莉子の鼓動は前回よりも落ち着いたふうに思えたが、同時に救いようのない絶望の目撃者になってしまった人の気配を真田は感じた。花びらが散り、枯れた葉すらなくなった細い木枝をただ眺めるときの無情さ。それが、彼女の足元を流れてすり抜けていくような気がした。
短く礼を言い静かに莉子との通話を切った真田は、使い古した布団からのろのろと這い出ると、窓ガラスにぴたりと手のひらと鼻先を張り付け、自分の息で曇った部分を指先で拭った。透明になった表面から外の様子を伺うと、昨晩まで降り注いでいた雪は雨に変わっており、狭いベランダの床にうっすらと積もっていた白色は、雨水に溶けて形容しがたく無秩序な形状と色になっていた。このまま凍って固まり、気付かぬうちに消えてしまうのだろう。真田はそう思った。
数日ぶりに浮上した空腹が、腹の中で暴れている。それを鎮めようとキッチンの蛇口を捻ってコップに注いだ水道水を一口啜ったが、彼の渇きが癒えることはなかった。