現代のクリスチャンは、この弟子たちと同じように、自分に与えられた霊の権能を使おう/使えるとは全く考えていません。
自分の立場についてのこの間違いを正すために、創世記から黙示録までが一貫して「血の契約」によって「神様=義の筋を通す方」=「理性で納得できる祝福の実現」であることを、聖書の御言葉で証明します。
歴史的に日本に移入されたキリスト教諸教派では、「血の契約」を基礎としていないので、この観点からの教理理論が確立されていません。それゆえ「第2の義」から「第3の義」に成長するための論理性のなさ〔矛盾や疑問を抱えたままの解釈〕を、「ただ信じなさい」と教えられてきました。
それは日本の精神文化が、仏教の教義・論理で培われてきたところに、キリスト教があとから入ってきたので、その救霊真理も「悟りを求めるものであるかのよう」に捉えてしまうからではないかと、著者は考えます。
そしてさらにもっと重大な「概念のずれ」として、日本人の【霊知識と死生観】が、(仏教由来の)【死と無】を刷り込まれているので、「霊」を「死/死にまつわる忌避すべきもの」として扱うのです。キリスト教の「神様との生ける霊の関係性」を素直に納得することができません。
日本人はこのような文化環境の中で生まれ育っているので、「イエス・キリストを信じています」と告白しながら、その霊的根拠が薄弱であることに全く痛痒を感じません。むしろこの日本文化「悟り(分かったつもり)」を成長の手段としているゆえに、「キリスト教の本質」にまでたどり着けないのではないでしょうか。
この構造的文化ギャップによって、一旦信じたのに教会を離脱する人が絶えず、クリスチャン人口比率が0.8%に留まるのです。
本書ではこの欠如・欠点を補い、キリスト教の基盤である「聖書」が、論理的に「筋が通ったもの」であることを解明していきます。そして「血の契約に基づく相互の祝福義務」の「論理性」が、信仰の確信・根拠であることを述べていきます。
『神の御言葉の第一原則』
神様の定めた救いの絶対則「血の贖い」は、キリスト教の根本教理です。それはアダムとエバのための「皮の衣」となった動物の犠牲に始まり、旧約聖書では「生贄の血」で民を贖い、次にイエス・キリストによる十字架での血によって、今に至るまで、また、将来までも続く「永遠の定理」として、定められています。
この定理[いのちとは血である]を、神様は日々の生活で人々が認識するように、「いのちにはいのちで償わなければならない」と律法にして教え、守らせてきました。
このように神様は、「血を流すこと」が、「いのちを懸けた契約」であることを、人類創造の始めから教えているのです。そして神様は、「創世記」3:15節のサタンへの宣告を、[女の子孫の契約の義務]として、独り子イエス・キリストを十字架につけて死なせることで実行し、全人類の原罪を贖って「血の契約」がキリスト教の本質であると証明しました。