第1章 神様との関係性の正しさ=「義」について

第3の義

ヨブの3人の友は、「恥辱(死)を受けるべき神認識だった」のに、改心したヨブのとりなしで命を落とさずに済みました(「ヨブ記」42:7~9節)。それまでのヨブは、清廉潔白で悪から離れて、「律法に正しく従って」いたので、裁きの対象者ではありません。しかし霊的には「信仰者ではなかった」のです。

これに等しい状態を、主イエスは複数の福音書で弟子たちに向かって、

「信仰が薄い者」

「あなたがたの信仰はどこにあるのか?」

と嘆いています。

「マタイ」

8:26しかし主は言われた。

「なぜ恐れているのか、信仰の薄い者たちだ」

それから、起き上がって、風と湖を叱りつけると、大凪になった。

8:27そこで人々(弟子たち)は驚いて言った。

「風や湖までが彼の言うことをきくとは、いったいこの方はだれなのだろう」(同意節、「マルコ」4:35~41節)

「ルカ8章」では、25節で

「あなたがたの信仰はどこにあるのか?」

と弟子たちの姿勢を問いただしています。

この大暴風がサタンの仕業であることを、主イエスは分かっているから平然と寝ていられたし、逆に弟子たちが彼らの信仰で、この嵐を鎮めることを期待していました。なぜなら、「マルコ3:14~15節」で、弟子たちにその権威を授けているからです。

「マルコ」

3:14それからイエスは12弟子を任命して、御自分と一緒にいさせ、彼らを宣教に遣わされた。

3:15彼らに病気を回復させ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。

弟子たちに向かって、

「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ」

「あなたがたの信仰はどこにあるのか?」

と嘆いているのも、彼らがサタン・悪霊に対して、与えられた権威を使って、神様が造った自然の平穏を取り戻すという、「地上の支配者としての信仰者」が当然なすべき霊の戦いをしていないためなのです。