翌朝、晴美は軽い眩暈を覚えながらも会社へ行こうとしていた。母親は「今日は休んだら……。顔色もよくないわよ」と言う。「でも、私は、給料の三倍の広告を取らないと馘首になる……。せっかく正社員になれたのに」

(うわ)(ごと)のようにか細い声で晴美は言った。

「晴ちゃん、体と仕事どちらが大切なの。元気な体さえあれば、いつでも働けるわよ。まず、体を大切にしないとね」

母親に諭されて、晴美は会社へ行くのをやめた。

「そうなのだ、体が大事なのだ」そう小さい声で眩くように自室に戻って、布団の中へもぐり込んだ。母親は「今日は休ませて下さい」と会社へ電話をした。

その日を境に、晴美は布団から起き上がることができなくなった。両親は随分と心配した。兄も姉も「病院へ連れていってあげて」と口を揃えて言う。

岡坂病院の内科へ行った。医師は神妙に聴診器を晴美の胸、そして背中に当てた。

「うーん。内科的には問題はありませんね。どうでしょう、精神科へ行ってみてはいかがですか」

医師の言葉に、両親は顔を見合わせて、少し怯んだ。精神科といういかめしい名に。

「お父さん、どうする?」

母親は父親の顔を覗いた。

「そうだな。先生がおっしゃるのなら、行くしかないな」

岡坂病院は精神科もある。それは内科より奥まった所に位置する。患者の顔をなるべく晒さないようにする病院側の配慮であろう。しかし、そうしなければならない現実に問題があると父親は思う。

晴美は精神科へ両親とともに行った。待合室のソファーには所狭しと患者たちが座っていた。こんなにも患者が多いのか。その患者の多さに両親は驚いた。

初診なので、一時間半も待った。

「井意尾さん、どうぞ」

でっぷりと肥えた看護師の大きな張りのある声であった。その声に促されて、三人は診察室の中へ入った。

「どうしました?」

丸顔で鼻の下に白いひげを生やした初老の医師は優しい声音で言った。晴美は蒼白な顔をして少し汚れた床ばかりを見つめていた。自分の症状が言えないのだ。「内科へ行ったのですが、精神科を紹介されました」と父親が言った。

母親も、「布団から起き上がることができないほど……」と心配顔で言った。

その間、医師は晴美の様子を徹頭徹尾観察していた。そして、口を開いた。

「疲れていますね。ゆっくり休ませて下さい。薬を処方しておきます」

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