臨死体験
人がこの世を去ろうとしている時には、どのような体験をするのでしょうか。私たちは死んだ経験がないので、それを明確に語れる人はほとんどいません。ほとんど……と言うのは、ごく稀に臨死体験をしている人がいるからです。
いや、実はごく稀ではないようです。臨死体験は驚くほどよく報告されているようで、死期が近づいた人の三分の一が経験しているとも言われています。もうすでに亡くなった人が迎えに来ただとか、明るい光が射してきただとか、天井に自分の姿が見えただとか、さまざまな体験をしている人がいます。
それらの人に共通している点は、肉体からの精神的な離脱であったり、満足感であったり、また長く暗いトンネルの中をすばやく移動して、明るい光の中に入る感覚があったりするということです。どうやら臨死体験はまったく怖くないようで、逆に快適ですらあるのかもしれませんね。
神経科医のアジマル・ゼンマーは次のように述べています。
「神経外科医として、私はときに喪失感と向き合います。取り乱した家族に愛する人の死を伝えるのは、如何ともしがたいつらさがあります。研究から学べることは、愛する人が目を閉じ、私たちの元を去ろうとしているそのとき、彼らの脳は人生で経験した最も素晴らしい瞬間を再生しているかもしれない、ということです」
走馬灯のようにこれまでの人生を振り返り、それも素晴らしい幸せな瞬間が再生されながら死を迎えることができれば、どれほど穏やかだろうと思っています。死の間際の脳研究の中には、死ぬ瞬間本当に幸せな脳波が現れると報告した研究者がいました。
親鸞は、臨終の善悪をば申さずと言っていますが、どのような亡くなり方をしても、死ぬ瞬間には自らの素晴らしい人生が走馬灯のように想起されるのだと思います。それが、死というものなのだろうとおぼろげながら考えています。そうすると死は怖くないのです。幸せな瞬間を味わいながら死んでいけるのです。
それはきっと生まれる前に決めてきた素晴らしい人生を再現することに他ならないのだと思います。そして、みなさんが想像するたくさんの花が咲き乱れた天国で、極楽浄土を堪能するのだとしたら、死は天国への入り口、極楽浄土への入り口なのかもしれません。
一蓮托生という言葉があります。これは、極楽浄土で同じ蓮の花の上に生まれ変わることを意味します。もし愛する人と一蓮托生を体験できれば、死ぬことは本当に怖いことではなくなるのかもしれませんね。