呼吸

日曜日の朝、九十歳の伯母が亡くなったと親戚から連絡があり、その日のお通夜に参列しました。小さな漁師町に住む伯母は、人のために料理を作ったり、毎朝すべての親戚のお墓の掃除をしてくれていた人でした。

子どもの頃は、お正月やお盆休みになると、親戚一同がその小さな漁師町に集まり、(ほう)()きをしたり、海や川で泳いだり、盆踊りをしたりと、楽しい思い出しか残っていません。お通夜の時はそんな話に花を咲かせながら、昔話をたくさんしました。でも、伯母が亡くなり、小さな漁師町に住む親戚は一人もいなくなりました。さみしい限りです。

伯母の死に顔を見て、母が亡くなった時のことを思い出しました。胃がんだった母の最期を予感した夜に、家族を病院に呼び寄せて、呼吸が浅くなっていく母の最期を看取りました。「人はこうやって亡くなっていくんだな」という経過を目の当たりにして、その穏やかさを見守りました。

どのような亡くなり方をしても、最期の時には脳内にアドレナリンが出て、これまでの記憶が走馬灯のように蘇り、幸せな状態で亡くなるのではないかという仮説を立てた研究者がいましたが、もしかしたらそれもあながち間違いではないのだろうと思った瞬間でした。

母の亡くなった姿を見て、つい前の晩まで会話をし、心を動かし、呼吸して、温かかった母はもうここにはいないと実感したことを覚えています。

亡くなる前と亡くなった後の体重を測定した研究者がいて、その差は四〇グラムだったとか……。そうすると、人の魂は四〇グラムなのかもしれません。それは信憑性が低い結果だと言われていますが、でもその時にもうここにはいないと実感した母の魂は、その容れ物だったからだから抜け出したような不思議な感覚があったことは確かです。

魂は目で見ることができませんが、容れ物としてのからだに魂が吹き込まれるという条件が揃うことで初めて、人間としての生きている姿を見留めることができるのかもしれないなあと母の死を通して感じました。

呼吸の呼は「吐く」、吸は「吸う」という意味で、息を吐くことと吸うことを繰り返すことをいいます。この世に生まれる時は肺に空気が入り「オギャー」と泣くので息を吸うことから始まり、亡くなる時は副交感神経支配の安楽な呼気、つまり息を吐いて終わることが多いと考えられています(諸説ありますが)。

息を吸ったり吐いたりする行為は、空気の出し入れ、つまりこの宇宙とつながる行為なのではないかと思ったことがあります。生まれて息を吸うことでからだに魂が吹き込まれ、死ぬ時に息を吐くことでからだから魂が抜け出るのではないかと、まったく根拠のないことを考えたりして……。

死ぬことを仏教では「往生(おうじょう)」と言いますが、これは自然(じねん)に還ることを意味します。塩田千春展で見た「人間の命は寿命を終えたら宇宙に溶け込んでいくのかもしれない」という感覚と近いものがあるのかもしれません。

そうすると、宇宙に溶け込んだ母や伯母の魂は、「千の風になって」この空を自由に駆け巡っているのかもしれません。母や伯母の姿はもう肉眼で見ることはできませんが、魂がいつも近くにいると思うと心丈夫でいられるかもしれませんね。