元号「養老」の由来には親孝行な樵の姿が…!酒の出る泉「養老の瀑」
『幼学綱要』を読む
【第5回】
河野 禎史
日本の未来に危機感を抱き、「孝行」「友愛」「信義」など20の徳目から我が国と志那の偉人にまつわる逸話が記された、明治の子どもたちの学びのための書を現代語訳する
明治 15年(1882 年)、その勅命を受けた元田永孚によって編纂され、宮内省より頒布されたのが『幼学綱要(ようがくこうよう)』です。戦後以降の日本では『幼学綱要』について新たに解説された書籍はほぼ存在しておらず、いまではその存在を知る者も少なくなっています。本書は、そんな日本の未来に危機感を抱いた著者が執筆した『幼學綱要(原文)河野禎史注釈』(2021 年 マーケティング出版)を現代語訳したものです。※本記事は、
河野禎史氏の書籍『「幼学綱要」を読む』(幻冬舎ルネッサンス)より、一部抜粋・編集したものです。
【前回の記事を読む】平安時代、仁明天皇が母を思って見せた「親孝行の姿」とは?
第一章
③古今著聞集
【3】「養老の樵夫」
奈良時代の頃のお話です。美濃国、現在の岐阜県付近の当耆村に住む樵が父と暮らしていました。この樵は、とても父に対して親孝行でした。しかし、家は貧しくお金もなくて山で薪を採り、それを売って生活しています。その父は、お酒が大好きでした。樵は、いつも瓢箪で作った水筒を持ち歩き市場に行って、お酒を買ってから家に帰ります。
ある日、山で薪を拾っていた時のことでした。樵は誤って石に躓き山から谷に転げ落ちて倒れてしまいます。樵が目を覚ますと、近くにお酒の匂いがすることに気が付きました。樵は最初不思議に思って左右を見渡すと、石の間からこんこんと水が湧き出しています。その水の色は酒に似ており、樵は試しにこれを舐めて味を確かめてみました。その水は素晴らしい香りがしており、さらに、甘い美味しい味をしていました。樵はとても喜びます。
それから毎日、樵はこの水を汲んでから父に与えることができるようになりました。
霊亀三年(西暦717年)九月、第四十四代元正天皇は美濃に訪問されました。そして、その泉に名付けて「養老の瀑」と呼びました。さらに元号を改めて「養老」としました。