【前回の記事を読む】“目に見えないものにはお金を使わない父親”が子供の成長の壁になったワケ

第二条「形を求めすぎない」

専門は出たけど、結局、再び引きこもり

しかし、結局、B介君の父親は「形の無いもの」に、お金を出したがらなかった。そして、B介君は、ある専門学校に進学した。伝統のある学校で、Bさん一家が調べてきて希望したのである。

学校に問い合わせたところ、「塾推薦」というものもあることを知り、推薦したのだ。彼は真面目な子であり危険性もない子なので、学校の名を汚す事は無いという自信は、私の側にあった。それで、推薦できたのである。

その後、彼は専門学校に通い続け、たった一人だったが友人をつくれたという。自分とよく似た性格の地方出身の青年のようであった。

真面目な性格なので、学校は休まずに行き卒業もできた。

以前よりは社会的行動――いろいろな手続きをするとか――が、できるようになったようである。しかし、私の憂慮したとおり、専門を出たにしても、彼は就職できるわけはなく、資格をとる勉強もできず(やらず)再び、家に引きこもるようになったのであった。

子育てをしていると、色々、迷ったり悩んだりすることがある。そうすると、身近にいる人が何かと言ってくれる。その意見に従わない方がいい事も少なくないが、中には、心に「ハッ」と気付くような事を言ってくれる人もいる。

そういう言葉に学んだりしてジグザグしながらも、何とか「普通」の範囲に、わが子を止まらせられるのだ。

ここで言う「普通」とは、「学校に行く」「友人をつくる」「学内(学級内)に居場所がある」「授業に参加する」という意味合いである。(“平均”“真ん中”という意味ではない)

しかしながら、そういう中でも、せっかくの好意をこめた人の言葉や助言に、心を動かされず、子供の心のうちに生じているものに目を向けない人がいる。

「心」というものが分からず、子供の「心」を無視する人たちである。

「心」の存在を否定し、「形」ばかりを求めつづける人たちである。

Bさん夫婦は、人の心が全く分からない人たちだったのだ。子供たちに望むものが、ともかく勉強をできるようにして、どこかの学校に入れ、何か世間に通りの良い仕事に就かせたいということだけだったのである。

しかし、子育ての失敗は、「形」をいくら求めても、その「形」を伴うことは至難と言えるほど根深かった。それを、この子の両親は気付かなかった人たちなのである。そして、その修正の道筋を教え、諭しても、耳を傾けなかったのだ。

私がそのように断言できるのは、実は、B介君が幼い頃に父親とゆっくり話をしたことがあったが、彼は私の言うことに耳を傾けることは無く、子供たちは私の言った通りになってしまったのである。

B介君が三才位、下の子が乳児の時、Bさんに懇願されて彼女の住居を訪れたことがあった。後ほど、Bさん一家は東京のかなり郊外の一軒家に転居したが、当時は、都心の高層マンションの一室に住んでいたのである。その狭い部屋の中から、彼女はほとんど外に出ないのだ。

幼い子が三才位になると、母親は、寒かったり暑かったり疲れたりしていても、一日に一回位は子供を外に連れて行ってあげるのが普通である(買い物、散歩、児童公園など)。

しかし、人混みが嫌いな上に他者の中に混じっているのが苦手な彼女は、ほとんど外に出ないのである。

そういう様子を見て、私はB介くんのお父さんに、ゆっくりと話をしたことがあり、又、後ほど手紙も書いたのであった。