「それから六行目から八行目までを消す」

ぼくは鉛筆の先で上から一行、二行と数え、言われた部分を墨がはみださないように丁寧に消した。もう何日こんなことばかりやっているのだろう。教科書は殆ど文章の意味が不明になるくらいに消されているのだ。

 

ぼくはそっと上目遣いに先生の顔を見た。

この本はほんの数カ月前まで唯一絶対のものとしてぼく達が教えられた教科書だ。それを教えていたのはこの先生だ。それを今日はこうして塗り潰させている。きっと耐えているんだ。おとなであるということは、先生であるということは恥ずかしさに素知らぬ顔で耐えることに違いない。

ぼくは先生の表情の奥に何か動くものを求めて上目を遣ったのだった。でも、先生はむしろ得意気に声を張り上げた。

「日本の国から軍国的なものを追放するため、あらゆる軍国主義の亡霊を追い出すのです。そうして平和な国民として生まれ変わるのです」

―最後の一兵まで戦い抜こう。鬼畜米英打倒の日は、もうおまえ達の目の前に来ている―

つい数カ月前のあの声と少しも変わらない張りのある自信に満ちた声だった。

「それでは次は音楽の教科書に行く」

「村の鍛冶屋」という曲のページが開かれた。

―鉄より堅いと自慢の腕で打ちだす刃物に心こもる―

「この『鉄より堅い』というところと『刃物』というところが軍国的です。今から先生が言うように書き直しなさい」

先生はゆっくりとした口調で、GHQが作ったと思われる手引きのパンフレットを読み上げた。

「長年鍛えた自慢の腕で、打ちだすスキ、クワ、心こもる」

戦争が始まるすぐ前に小学校から国民学校と名前を変えた四年生の教室でみんなは黙々と筆で塗り潰して鉛筆で書き込む作業を繰り返していた。

全てが平和でばかばかしいくらいのどかだった。

どうしてみんなこんなに平気でいられるのだ。戦争で日本が負けようがアメリカが勝とうが、そんなことはどうでも良い。でもあれだけの号令で、あっち向け、と言っておいて今日は手のひらを返したように、こっち向け、と声を張り上げていられるとは。

ぼくはまた窓の外を見た。ヘリコプターはもういなかった。青い空だけがガランと街の上に広がっていた。すると不意に、その青い空の中に死んだ妹の顔が浮かんでくるようにぼくは思った。