第一章 ギャッパーたち
(一)畑山耕作
畑山は、兵庫で生まれた。小さいときからお笑いが好きだった。そしてその言葉や行動、つまり語りや仕草、表情等で人を笑わせるのが得意だった。小学生のときにも、クラスの同級生たちを笑わせていただけでなく、時に先生まで笑わせて、あの有名な大阪のお笑いの会社に行け、とまで言われたこともある。学芸会でも同級生と組んで漫才をした。
今思えば稚拙なお笑いだが、そのころ聞いた落語の話を漫才でやったが、結構うけたと思っている。中学生になり、高校生になっても、学園祭で漫才をした。そして、周りも卒業したらお笑いの道に行くだろうと、誰もが思うほどであった。
しかし、畑山の家族は誰一人、耕作が芸人の道に進むことに賛成する者はいなかった。お笑い芸人で食べていけるとは誰も思っていなかったのである。もちろん、学校で人気のあることは家族も知っていた。しかし、そのくらいのことでプロとしてやっていけるほど、甘い世界ではないことも、もはや周知の事実ではあった。
たとえ本当に才能があったとしても、実際に売れるのはほんの一握りでしかない。運も必要だ。それくらいのことは、本人も分かってはいた。
だから、畑山も、「家族と喧嘩してでも」とか、「人生をかける」というほどの気概を示すことはできなかった。ボケ役のようにふざけた、人生をなめたような態度をとるのはあくまでも芸の中だけのことなのであり、その態度を貫くには確固たる決意が必要なのである。
いわゆる「天然」といわれて、普通の状態でもボケている者もいるが、畑山はそうではない。ちゃんと考えてボケを使用していた。だからこれを職業にするには、ボケずにボケを続けることを宣明する必要がある。畑山にはその決意までは持てなかったのである。
耕作が一度、両親に話したことがある。耕作は新聞を読んでいた父親に向かって言った。
「俺、高校出たら漫才やろうて思うてるんやけど、どうやろ」
高校になっても学園祭で漫才を披露して、人気があったころなので、かなりの本気ではあった。父は、新聞を膝の上に下ろして眼鏡をはずしながら、上目遣いに耕作を見上げた。母は、台所の流しで食器を洗っていたが、驚いて、その手を止めて振り向いた。そして父が口を開いた。