八月二十七日

マリア院には新聞もラジオもありません。一週間に一度 牧夫さんが郵便物の出し入れのために馬車で出かけて行きます。馬に付けた鈴の音の遠のくのにつれて、あ、白樺の橋を渡った…今は清水の湧いてるあのあたり…とたった今託した便りが、ずんずんと「浮世」に近づいて行く心楽しさ。生徒達はこの時牧夫さんに買い物をたのみます。

駅の前にある たった一けんの小さな店からビンセン、リボン、赤いクシなどを買って来てもらうことが世の中との唯一のつながりのような気がして、ビンセンは、もう六册もたまりました。

こんなマリア院に、今日は札幌の本校からお客様が来られるのです。湖の底のような院内にサッポロ、サッポロというささやきがひろがります。

祭壇の花をいけ替える修道女様も、窓ガラスをみがくポストランティンの方々も小声で歌ったり、山羊の親子に「ね、お客様にお行儀よく御あいさつするのですよ」などと呼びかけたりしています。

この方々にも 札幌はやっぱりなつかしいのでしょう。

鈴の音が聞こえて来ました。生徒達がワッと窓にかけよったら 歓迎のために他の修道女様方と一緒に玄関に整列していらした教育係のマルガリタ様が とんで来て私達を叱りました。

私達は日頃、窓から身を乗り出すなんて、とんでもない、窓からは一尺以上はなれていなくてはいけないとしつけられていたのでした。

例のPAX-DOMINEの所で馬車が止まりました。他の方を玄関に残して院長様お一人、馬車の所までゆっくりとあゆんで行かれます。

宝石箱のふたのようにもったいぶって開いた扉から 先づみがき込んだ黒ぐつが現れ やがて絹のマントの裾がはらりとゆれて、ドイツ人のリタ様がゆっくり降り立ちました。お二人は故国のことばであいさつを交し、それから、日射しのとびはねる、まぶしい芝布の上を、院長様のさしかける日除けのかさの中で 小声で語りほほえみながら近づいていらっしゃいます。

私達が見るのはわずか数分のたったこれだけの光景なのですが 私は吹いて来る風にヴァニラとライラックをかぎ、リタ様の静かな一歩々に ネオンサインが、ひとつかみずつ、ヂャラヂャラと宝石めいた音を立てて 芝布の上にころがり出るように感じました。

 
 

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