その目標値はクリスチャン一人ひとりの霊的成長として、《聖霊のバプテスマを受け「神の義」とされて、神の子となるキリスト教論理》を、理性において〔契約による法的根拠である〕と納得して、それを自分の体質(霊性)にまで及ぼさなければならないことです。これが「キリストの身丈」の意味です。

<「エペソ」4:13 >最終的に、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全に大人になって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するためです(著者注:①信仰の一致(奇跡を体現するまでの霊性の一致)と、神の御子に関する②知識の一致(納得する論理性)とに達し、③完全に大人(サタンの攻撃を論破・排除できる者)になって、④キリストの満ち満ちた身丈(天に引き上げられる確信ある者)にまで達するためです)。

そのためには現在の日本の教会でも〔信仰に入った人に対して、「杯によるイエス・キリストとの血の契約という神様との絶対的関係性の保証」が、「キリスト教の本質」であるとして習得させ、その信者の身体には「イエス・キリストの血が流れていることを分からせなければなりません(「ルカ」22:20節、「Ⅰコリ」11:25節)」。

キリスト教がキリスト教たる真理は、イエスと呼ばれる方との「対等な立場」での「血の契約」です。それによって、全能の神様を「天のお父さん」と呼べる、霊の家族の関係になっているという真理です。

しかし、この《法的論理性による関係性》を、自分の体質にまで取り込めていません。

つまり「十字架による罪の贖い」は、キリスト教に入信するための「初心者教理」なのに、その目的と限度を分かっておらず、それを「信仰の本質」だと取り扱っているからです。

今まで教会で教えられてきた教理、世間に流布しているキリスト教に基づく伝承などが、公平・公正で義なる「愛の神」を、恐れながら「半信半疑でただひれ伏し拝む」対象としており、霊的に全く正しくない態度を取っています。

「神の子とされること」への正しい知識を探求せずに、「よく分からないけど信じています」という状態では、主イエスが「しなさい」と指示している契約の義務「マルコ 16:17~19節」を、果たせないのはいうまでもありません。

新約聖書の章・節を、理性で納得するまでその書かれた言葉の意味通りに詳しく解読していくと、今まで常識と思っていたことが、そうではなかったと目からうろこが落ちるように、その「単純明快」な神様の性格と論理性が理解できるようになります。

そしてその「単純明快さ」のゆえに、神様・主イエスに100%の信頼を寄せることができ、「幼な子」のように素直(疑わず)に「確信ある信仰」を持てるようになるのです。

そのために、回り道と感じられますが、神様がキリスト教の救いの真理とした「信仰」を、その定義から洗い直すことから始めなければなりません。