以下しばらく旧拙著の引用である。
史料上の制約があるため、当試論では、主として舒明末年紀以後持統紀までの編年批判を行いたい。結論から述べると、書紀では、
Ⅰ.舒明13年紀(従来説で641年・新辛丑年、実は642年・旧辛丑年)から斉明2年紀(従来説で656年・新丙辰年、実は657年・旧丙辰年)までは、旧○×年を新○×年へと(例えば旧乙巳年を新乙巳年へと)1年次繰り上げて編年されており、
Ⅱ.斉明3年紀(新丁巳年)は、ダミー年次であって本来旧丁巳年(斉明4年紀)に置かれるべき記事から捏造された年次であり、
Ⅲ.このダミー年次が挿入されたために、斉明4年紀(658年・新戊午年・旧丁巳年)から天智8年紀(669年・新己巳年・旧戊辰年)までは、干支年の名目上のズレを糊塗する工夫算段を内包しつつも、基本的には正しい年次とされており、
Ⅳ.天智9年紀(従来説で670年・新庚午年、実は670年・新庚午年・旧己巳年と671年・新辛未年・旧庚午年を合体した年紀)は、本来の天智9年と本来の天智10年を圧縮して1年次とした年次であって、これによって本来の天智10年を削減し、
Ⅴ.天智10年紀(従来説で671年・新辛未年、実は672年・旧辛未年・本来の天智11年)から天武2年紀(従来説で673年・新癸酉年、実は674年・旧癸酉年)までは、再び、旧○×年が新○×年へと1年次繰り上げて編年され、
Ⅵ.天武3年紀(新甲戌年)はダミー年次であって本来旧甲戌年(天武4年紀)に置かれるべき記事から捏造された年次であり、
Ⅶ.このダミー年次が挿入されたために、天武4年紀(675年・新乙亥年・旧甲戌年)以降は、やはり、干支年の名目上のズレを糊塗する工夫算段を内包しつつも、基本的には正しい年次とされている。
従って、天武4年紀は、本来天武3年であったのであり、天武5年紀(676年・新丙子年・旧乙亥年)は本来天武4年であったのである。
以下同様であり、天武14年紀(685年・新乙酉年・旧甲申年)は、本来の天武13年、朱鳥元年紀(686年・新丙戌年・旧乙酉年)は、本来の天武14年であり、天武天皇の崩御は、この本来の天武14年(=本来の持統元年)の出来事である。
そこでまた、本来の朱鳥元年は、持統(称制)元年紀(687年・新丁亥年・旧丙戌年)に一致するのであり、以下、持統(称制)2年紀が本来の朱鳥2年、持統(称制)3年紀が、本来の朱鳥3年……、となっていたことになる。
持統(称制)4年紀=持統即位元年紀(690年・新庚寅年・旧己丑年・本来の朱鳥4年)に、新干支紀年法を伴う暦法が公的に採用され、(旧)己丑年が(新)庚寅年に読み替えられることとなり、この後、新干支紀年法すなわち現行干支紀年法に移行して現在に至っている。