事件の発端は、篠原が女性と二人でホテルのバーで飲み、かなり酔いが深まった頃に、いきなりその女性の夫から刃物で襲われそうになったということだ。襲われる直前に、篠原が気付いたので、篠原も女性もけがはしなかった。
が、襲ってきた夫の方がその場で自分の腹を刺したのだった。一命は取り留めたが、警察沙汰にはなるし、すぐに週刊誌にも嗅ぎつけられた。場所がホテルであったことや、女性の夫が篠原の出身大学の退官間近の教授であったために、週刊誌には恩師の若い妻を寝取ったかのように面白おかしく書かれてしまったのだった。
篠原が彼女と知り合ったのは、篠原が大学時代に少しかじったドイツ語のブラッシュアップを考えて、フリータイムで学べる語学スクールに入ったのがきっかけだった。彼女とは同じ講座の生徒同士だった。彼女は子供の頃にドイツで暮らしていた経験があって、発音も読解力も素晴らしく、篠原は最初から畏敬の念を抱いていた。
少人数のクラスだったので、しだいに生徒同士で互いの仕事など個人的なことも話すようになった。彼女は専業主婦だったが、篠原が毎朝新聞の記者だと知ると、自分も昔、毎朝新聞社の試験を受けた、などと話して篠原と親しくなった。
そこまでの話をすると緑川は、
「それで、彼女は、今はどうしてるの? 実家に帰ったの?」
事件のその後を聞いてきた。篠原は言葉に詰まり、ちょっと間をおいてから、
「いえ、元通り。教授と暮しているはずです」
ぼそぼそと言った。今度は緑川がちょっと黙り込んだ。そして質問を変えた。
「彼女には子供がいたの?」
「中三の息子が一人」
「彼女はいくつ?」
「三十九才です」
「ほー。教授は?」
「もうすぐ定年だから、五十九才ですか」
「おっと、オレと同い年か」
緑川はさらに様々な方向から質問をして、おおよそ聞き終わると、
「大変な事件だったと思うけど、篠原君だけじゃないよ。普通の暮らしをしているように見えて、みんな他人に言えない悩みや後悔や傷を抱えて暮らしているんだよ」しみじみと言うのだった。