第一章 二〇〇七年、飛騨支局勤務
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篠原は酒を飲むのは好きだったが、この度は週刊誌沙汰になったあとだから、もう誰かと一緒に酒を飲むということは全部止めようと思っていた。が、緑川の人懐こい笑顔を見ているとそんな決心も消えてしまって、とても自然に緑川とホットワインを乾杯していた。緑川はすぐに酔って、まずは水森部長のことを話し始めた。
「オレと水森は、いや部長なんだから、水森さんか。水森さんが入社した時からの付き合いなんだよ。オレが十才上だから、今の篠原君と同じくらいだったな。最初っから水森は取材対象にとことん食らいついていって、注目されてたよ」
それから緑川自身の話が始まり、独身で家族は誰もいないこと、若い頃に一度同じ会社の女性記者と付き合って、緑川は結婚したかったけれど、ちょうどヒマラヤ登山の取材が入ったので数か月間、日本を留守にして帰国したら、女性は同業他社の男と結婚していたこと、その後もあと一押しで結婚出来そうになると長期出張の仕事が入って、その仕事にかまけているうちに結局は女の人に振られてしまう、ということを繰り返して今に至っていること、山ならヒマラヤも国内の山々も登りまくったこと、今は北アルプスの記事を書きたくて飛騨支局にずっといるが、来年の秋には定年になってしまうこと等々、話すのだった。
緑川の話は内容が面白いし、話し方も明るくて楽しかった。さらに、緑川は、思いがけない質問を繰り出して本音を吐かせたり油断させたり、大変な聞き上手でもあった。篠原も気が付くと篠原の個人史のすべて、つまり東京は杉並区で生まれ、杉並区の小学校に入り、その後は私立の有名中高一貫校に進学し、さらに国立大学に入ったという幼年期から青年期までの学校関係の話、好きなタイプのアイドルや得意なカラオケの曲目など趣味関係の話等々、微に入り細に入り、この度の騒動以外のすべてを話したのだった。
家族についても、都立高校の生物の教師をしている父親と専業主婦で手話のボランティアをしている母親、司書をしている二才上で独身の姉がいることなども話した。そして
「中学受験も大学受験も、運よく希望のところに入れて、就職も一番入りたかった毎朝新聞社に入れて、ほんと、ラッキーの連続、でした」
ついうっかり、言っていた。さすがにそう言うと、篠原も緑川も同時に噴き出してしまった。今回の週刊誌沙汰こそ、そんな篠原の、最初なのに最大級の失敗、ということだった。そしてその流れで、篠原はこの度の事件について、緑川に話すことになった。