先に述べた本は、極力自分のお金で買うということを、心がけてきた積もりである。ただ一つ残念なことは、現役時代は転勤族だったため、転宅のたびにこれらの本が少しずつ減っていったことである。

本の重さ(河出書房の『世界文学全集』など相当な重量である)や置く場所の問題もさることながら、その時は、読んだ本に余り執着がなかったのである。今になって思えば、重くても、場所がなくても、読み終わった本は残して置くべきだったと後悔している。

やはり残して置くべき本は、たとえ古くなっても汚くなっても、売ったり、捨てたりしては駄目である。態々お金を出して買ってきた意味がなくなるのである。

例えば今、モンテーニュの『随想録』を見てみたい、ルソーの『懺悔録』を開いて見たい、パスカルの『瞑想録(パンセ)』をもう一度、覗いて見たいと思っても、手元になく、その欲求を満たすためには、本屋か図書館へ行かねばならない。ただ本屋の立ち読みでは、欲求不満である。やはり手元に有るか無いかでは、物足りなさと、その愛しさが違う。

既に述べた、人が一生のうちに読む本の数など、いま刊行されている本の数に較べれば、ほんの僅かに過ぎないが、無くした本などを入れると、結構読んだものだと思う。

本は、読んでも電話帳のように直ぐに役立つものではないが、長く読み続けると、本来人間にあるべき筈の感性や情緒がより豊かになると確信する。所詮、直ぐに役立つものは、直ぐに、役立たなくなるものなのである。一度手をつけた本は、たとえ内容が理解できなくても、必ず最後まで読み切る覚悟が必要である。

本を読む喜びは何ものにもかえがたい。カールヘインリッヒ・マルクスの『資本論』は、読まれずして称賛され、トーマス・ロバート・マルサスの『人口論』は、読まれずして貶される。

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