朝比奈隆さんの思い出
朝比奈さんは、京大の法学部を卒業して、一度阪急電鉄に就職し、電車を運転したり、百貨店の販売員となって、商品の包装などもしたことがあると自ら語っておられた。だから今でも、物を包むのが大変うまいと自慢されていた。また、世界中で電車を運転したことのある指揮者は、恐らく自分一人だろうと、誇らしげに語っておられた。
指揮は、在学中、京大オーケストラのヴァイオリン奏者として活躍する傍ら、ロシアのエマヌエル・メッテル氏に師事を受けたとのことである。戦時中、中国に渡り、各地でオーケストラを指揮され、戦後帰国、一九四七年関西交響楽団を結成されたのである。
二〇〇二年一月、NHKテレビで、二〇〇〇年七月に録画された、東京サントリーホールでの演奏会の放映があった。画像の中で、演奏会が終わり、既に楽員が舞台に一人もいなくなったあとも、聴衆の拍手に応え、一人舞台の袖際に立って、いつまでも手を振っておられた姿が映し出されていた。
普段、演奏が終わると、最初に指揮者が舞台裏に消え、その後楽員が立ち去るのだが、その時ばかりは、聴衆の拍手がいつまでも鳴り止まず、一人ぽつねんと立っておられた姿がとても印象的であった。こんなことは、極めて珍しいことである。
朝比奈さんは、この姿から一年数ヶ月後に他界されるのである。
ある練習中、楽団員に
「自分が死んだら、ベートーヴェンの英雄の第二楽章ではなく、第七番の第二楽章をやって欲しい」
と言われていたことがある(第三番英雄はナポレオンのために書かれたと言われているが、その第二楽章が葬送行進曲である)。氏の真意は解からないが、英雄の第二楽章は誰もがよく頼むので、自分の時は大変好きなよく感じの出た、新鮮なのが良いと思われたのかも知れない。
また、ある対話の中で、座って指揮されるのかと聞かれた時
「指揮者は立っているのが商売だから」
と笑っておられたが、終生指揮は立ったままでやられた。九十歳を越えて、一曲のシンフォニーを指揮すること自体、大変なエネルギーが必要な筈である。それを死の直前まで成し遂げられた忍耐力は、常人の及ぶところではない。
「あの有名なアルトゥーロ・トスカニーニ(イタリアの世界的指揮者一八六七~一九五七年)は、指揮をしている最中に死んだので、ああはなりたくないね」
とも言っておられた。
岩城宏之氏(日本有数の指揮者)の話によれば、世界で指揮中に急死した指揮者が他にも二人いるという。二人とも偶然にワグナー(ドイツの作曲家、楽劇の創始者)の同じ曲を指揮していて亡くなったということである。多分、あの演奏時間の長い楽劇に違いない。ワグナーも罪な曲を作曲したものである。