貧しさの中を懸命に生きる

再び小学校へ通い出す

母の実家に戻り、祖父母からは温かく迎えられて、私たちはやっと落ち着いた暮らしを取り戻せたように感じた。再び部屋を間借りして、母子三人で暮らしはじめた。

電気がある。水道がある。すきま風の吹かない畳が敷かれた部屋は、それだけでも私の気持ちをほっとさせた。

久しぶりに小学校へも通いはじめた。地元にある野津小学校である。転校生であった私は、なかなか学校に慣れることができなかった。しばらく学校に通っていなかったため、勉強に遅れを取っていたこともあるが、実はもう一つ大きな原因があった。言葉である。

台湾では標準語の日本語教育を受けていたため、その話し方が地元の子どもたちから「おかしい」と笑われ、いじめられた。本来、明るい性格だった私だが、はじめの頃は言葉を口にするのが嫌で、寡黙な少年になってしまった。それでも子どもの順応力とはたいしたもので、何人かの友だちと話しているうちに、この土地独特の言い回しやイントネーションにも慣れ、少しずつだがなじんでいくことができたように思う。

母の実家の八代にたどり着いたとき、父からひどい仕打ちを受けていた私は、もうすでに父はいなくてもよい存在であると考えていた。母と妹との暮らしで十分だと思っていた。

ところが一か月も経たないうちに、その家に父が姿を現したのだ。私はびっくりして、怯えた。母が追い返してくれるかと思ったのだが、数日経っても父は私たち家族の部屋から出ていかない。結局そのまま、父も一緒に暮らすこととなった。

小学生だった私に、大人の事情はわからない。とにかく再び、四人での生活がはじまったのだった。この頃の父は、山にいたときよりは落ち着いていたのだと思う。そのうち家を建てよう、という話になった。母の実家から土地を譲ってもらうと、父は自分の手で家族が住む家を建てた。

素人の手造りだからそれほど立派なものではないが、それでも家族四人が一緒に雨風をしのげる。水道や電気も通った。人間らしい暮らしができるようになったことに、私は幸せを感じた。