自ら主宰した誕生会も粛々と進んでお開きとなり、井上は退席。招待された側だけが残り、酒好きの勇士十数人で二次会をやろうということになった。前任の草加と同じつもりで、
「大いに楽しくやっております。校長もちょっと如何ですか」
と一人の科長が校長官舎に電話をかけたところ、
「そういう席へ私は出ない」
あっさりと電話を切られてしまったというのです。
また同じく阿川の手になる『暗い波濤』(新潮社)では、これとよく似たシチュエーションで津島という名の兵学校の教頭が出てまいります。津島が退任し霞が関の赤レンガ(海軍省のこと)への転出が発令され、その壮行会でのこと。やはり宴席が終わるや、あっさりと官舎へ帰ってしまった津島に、
「教頭。目下二次会で大いにやっているところですが、教頭にもあらためて無礼講でおいで願いたいと一同申しております」
と電話をかけたところ、
「駄目だ。一同とは誰々か? 海軍には無礼講はない。酔っ払いの席は私は失敬させてもらう」
一方的にガチャンと電話が切れたと。
山本は井上の海兵五期先輩にあたり、このときすでに連合艦隊司令長官に就任していて洋上にいましたから、江田島の海軍兵学校の官舎に居合せることはありえないのですが、『暗い波濤』に出てくる津島という名の教頭が井上をモデルにしたものに間違いないとして、山本がこの場に居合せていたとしたならどうだったろうかと、想像してみました。
「まあまあ、井上君。確かに君の言うとおりだが、君の壮行会の二次会をやっているのだろう。ここはちょっとだけでも顔を出してやったらどうだい。ほれ、これを持っていけばよい。いくら飲んでも酔わぬ不思議な酒だよ」
そう井上の耳元でささやいて、例の「酒」を勧めたに違いないと思うのです。
漢籍にも通じていた山本のことです。「君に勧む更に尽くせ謎の酒」などと言って、井上を笑わせたのではないでしょうか。
武蔵野
「武蔵野」と聞くと、皆さんの脳裏には何が思い浮かぶでしょうか。
「宮本武蔵」とお答えになる方、多くいらっしゃることでしょう。日本人に剣豪を一人あげよと問えば、十人中九人は「宮本武蔵」と答えるとしたものです。
若い世代の方であれば、「東京スカイツリー」とお答えになるかもしれません。武蔵の国の「ムサシ」と「六三四」をひっかけて、六三四メートルの高さに設計されたのでしたね。
さらには「戦艦武蔵」。昭和の大戦時レイテ沖海戦で、数多くの将兵とともにシブヤン海に沈んだ旧日本海軍の軍艦名を思い浮かべた方も、ご年配の中には多くおられるのではないでしょうか。
ニヤリと笑って舌なめずりをなさった方、もしかしたらこの方は大酒飲みかもしれません。