菊之丞は、“舞台にどんな役者が出ていてもナ、ご見物衆は俺しか見ていないンだよ!”といつも言っていた。本当だった。誰もが認めた。
「そうでしょ。だから兄さんの名前が付けば売れますよ」
松七郎は断言した。
「そうか。わかった」
「だけど、少し金を使いますよ」
「金? ええ、いくらだ?」
菊之丞が金の額のことを聞いたのは初めてだった。
「え!」
松七郎は驚いた。
“金銭を見ること土芥の如し、生活に奢侈を極めた”といわれた男である。松七郎は、珍しいなと思った。
「五十両くらいで!」
松七郎は菊之丞の目を見て言った。
「なんだ、そいだけか」
菊之丞が世間知らずなのは有名であった。今まで、金のことで心配したことはなかった。
「太物を買って、染めて、そのくらいでしょう。兄さんがお大名のお屋敷に、ちょいと出かけて所作事をすればいいンですから」
松七郎は菊之丞の顔を見て微笑んだ。
「何? お前、良く知ってるじゃねーか、ふふ」
今度は、菊之丞は松七郎の目を覗いて微笑んだ。
「権兵衛さんに聞きました。番頭さんのご自慢で」
「はは、そうか」
「『家の旦那がな、雲州松平出羽守様の屋敷に呼ばれてナ、鳴物、衣装、大道具、小道具、全て自前で、本舞台同様の仕立てで、鷺娘を踊ったンだ。ご褒美は五十両! くだされ物も頂いた』とご自慢でしたよ。権兵衛さん、皆に言いふらしてましたよ」。松七郎は言った。
「ふふ、そうか」
菊之丞は優雅に笑った。