第一章 晴美と精神障がい者
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井意尾晴美は精神障がい者である。しかし、障がいは先天的なものではなく、後天的に精神障がい者になったのだ。彼女は悔しかった。が、どうすることもできない。自分の運命を怨み、呪ってもみたが、ついにそこから這い上がることはできなかった。
晴美は平成三年、東京郊外にある地元のS大学の経済学部をまずまずの成績で卒業した。バブルが弾けたあとの厄介な就職難の世の中を、海中にいる魚が涼しく尾を振りながらスイスイと気持ち良さそうに泳ぐように、いとも簡単に『ゴウジャイ』というタウン誌の営業に正社員として職を得たのだ。
これまで、彼女は追い風をたっぷりと浴びるように、順風満帆に何のトラブルもなく歩んできた。晴美は両親が揃った、格別豊かではないが普通の家庭に生まれ、兄と姉の三人兄姉であった。兄は会社員、姉は公務員としてすでに就職している。
三人は他人が羨ましがるほどにとても仲睦まじい。
晴美がさして苦労もなく就職できたのは学生時代に販売士二級の資格を取得していたからである。この資格の合格率は15パーセントぐらいであり、割と難関であった。彼女はこの資格を得るために今までになく猛勉強をしたのだ。講習会にも参加し、合格するためのノウハウを学んだ。
そんなことが功を奏し、見事二級を掌中に収めたのである。
晴美は営業職に就くのが目標であった。一見、営業は手強いようだが、それを一人前に務められれば、どんな仕事でもできると考えていたからである。いってみれば世界を征服したというような快感を覚えるのだ。
晴美は何に対しても貪欲であり、知的好奇心が旺盛で、人生をプラス志向で進んでいくのが我が道だと思っていた。彼女の周辺にはそんな考えとは逆の思考をする者もいるが、晴美は「彼らは人生の敗北者だ」と常日頃思っていたのだ。
販売士二級を得てから、晴美は大学四年の夏から就職活動に精を出した。どんな会社の営業職に就くのかが難題であったが、とにかく、手当たり次第、営業と名の付く職種がある会社に挑戦した。その会社は三十にも及ぶ。どこの会社もそれなりの手応えはあった。だが、彼女は文章に縁が深い会社を選びたかった。その理由は彼女自身にも、全く分からない。とにかく、文章の匂いが飛び交う職場を生理的に求めていたのだ。しかも、こぢんまりとした新聞社か出版社を希望した。
「編集長」――あぁ、何という心地良い響きであろう。晴美はその言葉を発するだけで心が踊ってくる。エネルギーが体の芯から湧き出てくる。この言葉のイメージが晴美の心を奮い立たせる。