序章
「晴美さん、悪いが、そこにある段ボール箱を取ってくれる? ちょっと重たいよ」
「はいよ。これですね」
晴美は満面の笑みを四辺にばらまくように、孝彦から言われた傍らにある蜜柑の詰まった段ボール箱を「よいしょ」と大きい声を出して、五メートル先にいる孝彦の所へ運っていき、手渡した。
「ありがとう。助かったよ」
孝彦も自然と喜色を浮かべた。
ここは、人口七百人ぐらいの瀬戸内海に面したとある四国の小さい田舎の町である。四十年前までは人口百人ぐらいの小さな町であった。
地区一帯は江戸時代末期に始まった塩田で繁栄したが、次第に衰退していき、昭和時代の半ばに国の政策により終わりを告げた。その数年後に『円い町』が誕生した。以来、元々、山あり、海ありの自然の幸に恵まれたこの町は、その恩恵を充分に受け、自給自足でやっている。
そして――住民はみんながみんな、笑顔を浮かべ、瞳は生き生きと輝き、生命力が溢れんばかりだ。
この『円い町』の特色は、健常者と精神障がい者との区別が全くないと言っていいほど、平等だということにある。この町のリーダー・春恵さんが言いたいのは、精神障がい者をそれとは決して呼ばない。「善常者」ということだ。また、彼女は口を酸っぱくして言う。
――精神障がい者はまるで犯罪者のように社会の害(余計者)として見られ、偏見と差別のある中で一番の標的とされている。が、彼らは決して害などではない。それどころか、彼らの存在そのものが、健常者の、矛盾に満ちたこの社会を善き社会へと変革しようとする原動力となっているのだ。つまり、精神障がい者を排斥しようとするのでなく、逆に崇めなくてはならない。
その論理により、春恵さんは精神障がい者を「善常者」と呼ぶことにしたのだ。
そんな彼女の考えが口コミで広がり、賛同する人たちが健常者と精神障がい者を問わず、全国津々浦々からこの『円い町』へとやってきた。
そう、孝彦は健常者で、晴美は善常者なのである。