「磯部さんは有能ね」
とマリさんは言い、小さなコップ酒を味わっている。
「そう。あれでアル中でなければ、結構部長くらいにはなってるでしょうね」
と私は相槌を打ちながら、向かえ酒の日本酒をえいやっとやった。鳩山さんの奥さんも日本酒が好きだそうで、帰り道だからと喜んでついてきた。これから東京駅に出て、仙台の実家へ帰るそうだ。
「パリへいらっしゃれば良かったのに」
と言うマリさんに、
「もう何回も行ってますのよ。それに今回彼は稲穂さんの通訳で忙しいですし。お仕事ですから私はお邪魔虫でしょ」
と福島の酒を飲んでいる。
「エリさんこそいつかフランスにはいらしたほうがいいわね」
と彼女。
「そう。イタリアにも行きたいし」
と私。
「このお酒どう?」
と渡され私は味見してみる。辛口でバランスのいい味だった。で、3人で3本このお酒を買い、東京駅へ行くマリさんと鳩山さんの奥さんに失礼して私は歩き始めた。
銀杏が少し黄金色になり始めている。風は心地良い。家は芝公園沿いにある。母が離婚してすぐ移り住んだアパートに私は未だ住み続けている。もう30年以上になる。家賃はそう高くないし、大学も家から通えた。大学で付き合った人と同棲する予定だった時、母の胃癌が発覚して、この家を出る予定は立ち消えた。
大学は神田にあり、国際日本学部は私のようなハーフにはうってつけの学部であった。神田は大学が多く集まり、大学生がたむろう喫茶店も多く、神田川沿いの桜はとても綺麗であった。母は残業が多く、私はバイトはせず家事と食事の担当をしていた。大学の帰りに皆と一緒に遊びに行くということは控えていた。
でも、3年の時にボーイフレンドができた。友田君と言い、同じ大学の法学部で、学食や図書館で会ううちに仲良くなった。確か実家は金沢で私と共通点も多かった。一人でトイレなど共同のアパートに住んでいた。風呂はあの神田川の歌にもあるように、町の銭湯だった。我が家にも遊びに来たし、母にも会ってもらった。
母は私にくれぐれも妊娠などしないようにと何度もお説教を垂れ、私は耳を塞いだものだった。母にとっては私が無事に大学を卒業することだけが夢だった。友田君の就職が内定し、私達がアパート探しに明け暮れている時、母のガンが発覚した。授業料を捻出するための残業がたたったのではないかしら。それに保険会社というのは歩合制でストレスの高い職場だ。
母のガン宣告に、私は後ろ髪を引かれながら結婚まで考えていた友田君と別れた。母はそれから胃を摘出し、でもガンが転移して私が25歳の時亡くなった。私はその頃は鳩山さんのレストランで働き始めていた。最初は洋子さんの下で下ごしらえ担当だった。その私が副料理長になったのは30歳になった時のことであった。