雄二のお母さんは60歳で元気そうだが、私の母は10年前、54歳で亡くなった。福井の冬は寒く、酒はおのずと熱燗になる。一度お正月に母と帰った時は祖父も健在で、母は祖母の手作りの御節に熱燗で、幸せ、幸せを連発していた。外は雪吹雪で炬燵から出るのも億劫な寒さだった。

「アメリカにも蟹あるけど、こんなに美味しいのはないわ」とその夏行ったサンフランシスコの海辺を思い出しながら私は蟹を頬張っていた。

「サンフランシスコにも蟹があるのか? 海に囲まれた町だそうじゃないか?」と祖父がストーブの石油を外へ出しながら聞く。

「漁師町だったのは大昔で今は観光客用の港があるのよ。綺麗な町よ。蟹は手足が短い毛蟹みたいなんだけど、ゴロゴロと大きなドラム缶のなかで茹でられてるの。あちらではそればかり。それを食べさせるお店が海沿いに並んでるの。おじいちゃんを連れて行ってあげたかった」と言う私に、「お父さんは元気か?」と聞く。

「ええ。グランマとグランパも元気よ」と私が言うと、祖父は遠くを見ながら微笑んだ。私が生まれた時もその前後も何回も父母は福井に来たようで、写真が残っている。祖父は地元で写真館を営んでいた。祖母は瀬戸物工房で絵付け師として働いていた。父が外国人だというので、皆が珍しがったそう。

父は金沢の城下町が好きで、輪島の朝市にはびっくりしていたそうだ。おばさん達にジロジロ見られても片言の日本語で質問を繰り出し、アメリカ人だなあと言われたそうだ。

ああ、結婚式の写真もある。文金高島田に紋付袴のやつ。父の紋付袴には笑ってしまう。袴がちんちくりんに短い。母は真っ白い小さな顔ですまして写っている。お腹には3ヶ月の私がいたそうだが、着物なので全くわからない。

アメリカの父のご両親は結婚式には来なかった。母はサンフランシスコのカソリックの教会で白いウエディングドレスで式をあげたかったらしいが、お腹に私がいてサンフランシスコに行けたのは私が1歳の時だった。私が飛行機の中をハイハイしてまわり、父母は疲れ切ってしまった渡航だった。

英語の全くできない母は会話もほとんどできず、父の後ろを腰巾着のようについて歩き、父は初めて母をうっとおしく思ったらしい。と、母が私に話してくれた。あまりにもアメリカが想像と違ったようで、その後1回もアメリカには行きたがらなかった。

だから私は一人で父に会いに行ったのである。父は母の葬式には来なかった。で、私は16歳から今までもう20年あまり父には会ってない。父は母より1歳下なので、もう63歳になる。

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