子猫とボール

或る老婦人の回想 (一)ガラスの天井

ここは今でこそ人口十九万の市ですが両親の時代は東京都周辺区域にあった数多い町の一つでした。その前は村でした。人口が増えて市に昇格したのは四十八年前のことです。

東京都心からは片道特急で一時間三十分、横浜からも交通の便が良くないので同じ位掛かります。私共の病院はこの市の中核をなす医療機関です。市内にはその他に総合病院はありません。

最寄りの私鉄の駅から徒歩十五分。定期バス及びシャトルバスあり。外科(胃腸科)、整形外科、内科、神経内科、小児科、耳鼻咽喉科、眼科は常勤医師がおり、その他に皮膚科、泌尿器科はそれぞれ週三日パートの医師が来ています。

ベッド数二五〇。常勤医師二十五人、看護師三十八人。その他にパートの医師、看護師が各十数名、検査・レントゲン技師、薬剤師、理学療法士、事務員も合わせるとスタッフは百二十人規模です。清掃や売店は外部から入れています。もちろん健康保険適用医療機関で救命救急病院指定も受けています。院長の初診料一万円、これは保険の適用外です。

私の両親はこの町でずっと医院を経営してきました。父は産婦人科、母は内科・小児科でした。私はその一人娘で伝統のある女子医大卒です。

父はその年代の男性の例に漏れず、戦争に行きました。すでに三十歳半ばでしたが配属先が中国の陸軍病院だったお陰で無事に帰ってこられました。でも私の五歳上の兄は戦争中に栄養不良で亡くなりました。生まれつき体が弱かったのかも知れません。私はいわゆる“団塊の世代”、一九四七年生まれです。

医者の家の雰囲気にどっぷりつかって育ちました。思い返せば子供の頃から私の家には家庭の団欒なんてありませんでした。例えば両親と近所の友達と一緒に遊園地に遊びに行くことになって、お弁当も用意していざ車に乗ろうとする時に急患が来たりするんです。

父の専門は待ったなしでしたから遊びに行くのは中止になり、私は友達に謝ってバツの悪い思いをするなんてことがしばしばありました。当時の開業医の家なんてどこもそうだったと思います。人口は右肩上がりでしたし、お産も子供の数も多かったのです。

医大の学生だった時は月末の忙しい時期に手術の助手や医療事務の手伝いもしました。両親の手伝いは医院経営の流れを知る上で勉強になったと思います。振り返ってみると両親の頃は開業医が良かった時代です。父の友人の開業医が医院を閉じる時に言いましたわ。『開業医のいい時代は終わった』